ここ最近極めて多忙で、何とか家には帰れる、という程度の日もしばしばである。9月中頃までは何もできないに近い状況だ。それを過ぎれば、相変わらずマイペースではあるが細く長く維持するつもりである。相変わらずアクセスいただいている皆様には申し訳ない限りです。
ところで、本ブログからもリンクしている「さくらの永田町通信」が閉鎖の憂き目にあったという話を聞いた。本ブログの別のリンク先複数に記述されているので知っている方も多いと思う。私は上記の通り多忙で、最後のエントリなどは目にすることができずとても残念である。安倍首相批判のエントリは読ませていただいた。確かに反響も大きかったようであるが。
それにしても度量の狭い事であると思う。彼女が党関係者にあたることはブログ内容からして分かるとしても、どのような立場の人であるかは、例えば私などは全く把握していない。党に属する立場ではあるが、一般の自民党員の中では比較的内情に詳しい一人のブロガーとして、個人的見解の発露という立場に徹していたように思われる。公的なものと私的なものの距離感覚は常に注意深く維持してきた賢明な人物とは言えないだろうか。誠に惜しいことであると思う。抗議の意味も若干こめて、リンクはそのままにしておく。撤回されることを願いつつ。
「副会長だより」も閉鎖された由。正直私は多くのブログを読んでいるわけではなく、このブログもそのうちエントリをまとめてゆっくり読み、リンクをお願いしようかと思っていたという状況である。忙しさにかまけて放置しているとこのように後悔することになるという事か。
閉鎖に至る経緯としては、Baatarismさんのエントリで(コメント欄で)書かれているように機械的な処理という可能性が高そうに思われるが、あまり細かい事まで規制するのはうまくない話である。むしろ党職員が喜んで宣伝役を買って出るような求心力の強い政権を目指すべきであろう。支持しない人間であるとしても、10くらい批判する人間を7程度の批判にとどめるというのが政治の要諦なのだが、この調子では期待できそうにない。・
それにしても、今年後半から来年いっぱいくらいは、恐らく国際情勢の激動の年になろうかと思うが、この不人気な求心力のない政権でそれを迎えるのは誠に不安である。政治とは不思議なもので、支持率の高い政権の政策は追認し、同じ政策を掲げる支持率の低い政権より良い結果を得る事がしばしばある。シビアな決断の際には特に問われよう。政治の失敗は破滅というより停滞という事になろうが、変化の激しい時代では当面の批判が少なくても致命傷になることがある。
2007年08月24日
2007年06月09日
政治家に求められる清廉さとは
Seasaa系のブログではフリーのテンプレートがかなり出回っているようだ。デザインは前からどうにかしようと思って手がついてなかったが、色々探してこれは比較的気に入ったのでしばらく続けようと思う。面倒がらずに自分で準備すればいいのだろうが。
さて、政治と金の話は定期的に話題になるのだが、今回もHacheさんのエントリに反応する形で書いてみようと思う。
松岡氏の事件は唐突で驚いた。美化してはならない話で、さすがに政界には色々な意味で自制が効いているようにも見えた。氏がどういう人であったかは私は詳しくないので、ただ残念であり、厳粛な態度で臨まねばならない悲劇であるというだけにとどめる。しかしこのタイミングで、一部であるが、有能だが黒い政治家を良しとするような論調がある事には違和感を覚えた。念のために確認しておくが、松岡氏個人がどうであったかはまた別の話である。
一般論として、政治家は清廉であることが良しとされるし、日本人はそれを強く求める傾向にあるかもしれない。これは政治文化の一つで、議会政治家は所与の前提と考えねばならないだろう。そして世論の支持や議会の各議員に多数の支持を得ることで政治力を発揮するのが民主政治、議会政治の本質であることもまた論を待たない。つまり、倫理に関する議論を仮に保留するとしても、他の要件が同じ程度の能力であれば、清廉な人物のほうが多くの人の支持を得やすく、より大きな政治力を発揮し、良い結果を出しやすいのである。これ自体は当然の事であるが、この度合いが時期や状況によって変わるというのがこの問題の議論を複雑にしている原因の一つではないだろうか。そして経済の構造が変わり、多くの階層で経済的な損得の立場が複雑に入れ替わる流動的な時代では、それを主導する立場の政治家が清廉であることは強く求められるだろう。いずれにせよ、そうした事も含めて「総合的な有能さ」がどの程度であるかという、一つの尺度があるだけではないだろうか。
その意味で、「有能で黒い」人物と「無能で白い」人物を比較するという問題提起がここではやや不適切であろう。評価軸は総合的に見たもので構わない。むしろ別の問いを発する事は出来るかも知れない。「有能な人物であることを前提に、その中で極力清廉な人物を選んでいく」のか、「清廉な人物である事を前提に、その中で極力有能な人物を選んでいく」のはどちらが効率的かという事である。この問いに答えるのは難しい。しかし成熟した民主国家であればあるほど後者でもより機能するとはいえよう。社会によって要求する最低限の清廉さというものは異なるが、そのベースを上げていくという事に注力するのが効率的かもしれない。なおここ10年強の日本は、一般の印象とは異なりこの作業は比較的進んでいる。昔なら見逃されていた水準の行為が違法化されている。数十年後にここしばらくの時期は比較的高く評価されるのではないかと思うのだが。
さて、上記の「時期や状況によって変わる」点だが、ある政治家がどの地位につくかによって求められるものが異なる場合で典型的に示される。代表は首相職で、これは最も清廉であることが求められ、クリーンでないと世論に理解された時に大きく政治力を落とす。いくつかの大臣職もそうであろう。このあたりは分かりやすいが、例えば与党の党内職だと話が少々ややこしくなる。私見では少なくとも幹事長くらいはそうでないとうまくいかないと思うのだが、この地位を目指している多くの人物がそれを自覚しているとは思い難い。また世代によっても感覚は大きく違う。年齢を重ねた議会政治家が、数十年前の自分の経験をベースに行動することは多いが、ある時期に世の中の基準が変わってアウトになるというのも良くある。また日本人は変なところで慎み深いというか、金が必要だから集めると叫んで表で堂々と有権者に訴える人物も少ない。まぁ堂々としていればいいというわけではないが、透明性はやはり変化の激しい時代に重要な要件でもある。
結局のところ、細かい状況の変化に対応できる柔軟さが議会政治家には必要だし、それはその時々の有権者の常識的な感覚を理解していれば破局は回避可能な水準ではないだろうか。結局国民に近い立場の議会政治家がどのような側面でもまともになる可能性が高いとは言えないだろうか。
政治は奇麗なものではないかもしれないが、同時に奇麗に見せなければならないものである。少なくともそう見せようと努力している姿が見えなければ効率的に機能しない。これは民主政治の本質であるが、長い間国会議員をやっていてもそれを理解できていない人物はいるようだ。
さて、政治と金の話は定期的に話題になるのだが、今回もHacheさんのエントリに反応する形で書いてみようと思う。
松岡氏の事件は唐突で驚いた。美化してはならない話で、さすがに政界には色々な意味で自制が効いているようにも見えた。氏がどういう人であったかは私は詳しくないので、ただ残念であり、厳粛な態度で臨まねばならない悲劇であるというだけにとどめる。しかしこのタイミングで、一部であるが、有能だが黒い政治家を良しとするような論調がある事には違和感を覚えた。念のために確認しておくが、松岡氏個人がどうであったかはまた別の話である。
一般論として、政治家は清廉であることが良しとされるし、日本人はそれを強く求める傾向にあるかもしれない。これは政治文化の一つで、議会政治家は所与の前提と考えねばならないだろう。そして世論の支持や議会の各議員に多数の支持を得ることで政治力を発揮するのが民主政治、議会政治の本質であることもまた論を待たない。つまり、倫理に関する議論を仮に保留するとしても、他の要件が同じ程度の能力であれば、清廉な人物のほうが多くの人の支持を得やすく、より大きな政治力を発揮し、良い結果を出しやすいのである。これ自体は当然の事であるが、この度合いが時期や状況によって変わるというのがこの問題の議論を複雑にしている原因の一つではないだろうか。そして経済の構造が変わり、多くの階層で経済的な損得の立場が複雑に入れ替わる流動的な時代では、それを主導する立場の政治家が清廉であることは強く求められるだろう。いずれにせよ、そうした事も含めて「総合的な有能さ」がどの程度であるかという、一つの尺度があるだけではないだろうか。
その意味で、「有能で黒い」人物と「無能で白い」人物を比較するという問題提起がここではやや不適切であろう。評価軸は総合的に見たもので構わない。むしろ別の問いを発する事は出来るかも知れない。「有能な人物であることを前提に、その中で極力清廉な人物を選んでいく」のか、「清廉な人物である事を前提に、その中で極力有能な人物を選んでいく」のはどちらが効率的かという事である。この問いに答えるのは難しい。しかし成熟した民主国家であればあるほど後者でもより機能するとはいえよう。社会によって要求する最低限の清廉さというものは異なるが、そのベースを上げていくという事に注力するのが効率的かもしれない。なおここ10年強の日本は、一般の印象とは異なりこの作業は比較的進んでいる。昔なら見逃されていた水準の行為が違法化されている。数十年後にここしばらくの時期は比較的高く評価されるのではないかと思うのだが。
さて、上記の「時期や状況によって変わる」点だが、ある政治家がどの地位につくかによって求められるものが異なる場合で典型的に示される。代表は首相職で、これは最も清廉であることが求められ、クリーンでないと世論に理解された時に大きく政治力を落とす。いくつかの大臣職もそうであろう。このあたりは分かりやすいが、例えば与党の党内職だと話が少々ややこしくなる。私見では少なくとも幹事長くらいはそうでないとうまくいかないと思うのだが、この地位を目指している多くの人物がそれを自覚しているとは思い難い。また世代によっても感覚は大きく違う。年齢を重ねた議会政治家が、数十年前の自分の経験をベースに行動することは多いが、ある時期に世の中の基準が変わってアウトになるというのも良くある。また日本人は変なところで慎み深いというか、金が必要だから集めると叫んで表で堂々と有権者に訴える人物も少ない。まぁ堂々としていればいいというわけではないが、透明性はやはり変化の激しい時代に重要な要件でもある。
結局のところ、細かい状況の変化に対応できる柔軟さが議会政治家には必要だし、それはその時々の有権者の常識的な感覚を理解していれば破局は回避可能な水準ではないだろうか。結局国民に近い立場の議会政治家がどのような側面でもまともになる可能性が高いとは言えないだろうか。
政治は奇麗なものではないかもしれないが、同時に奇麗に見せなければならないものである。少なくともそう見せようと努力している姿が見えなければ効率的に機能しない。これは民主政治の本質であるが、長い間国会議員をやっていてもそれを理解できていない人物はいるようだ。
2006年08月06日
横須賀2006ネイビーフレンドシップデー
在日米軍と自衛隊の施設がある横須賀基地では、年に一度ネイビーフレンドシップデーを設けて一般開放している。周知のように通常は軍関係者以外の立ち入りは禁じられているので貴重な機会である。近年は横須賀市の各種開国祭との関係で、花火大会と同日実施しており、その見物の一等地でもあるので人出も多い。本年は8/5(土)に開催された。一度も行った事がないので足を運んでみた。簡単ながらレポートしてみたい。
現地は京浜急行線の横須賀中央駅が近い。徒歩で10分程度といったところか。基地への入口は数箇所あるが、フレンドシップデーでの入場は特定の一箇所に指定されている。毎年変わるが今年は三笠ゲートであった。なお立ち入り可能な場所での写真撮影は自由であるが、ゲート近辺だけは禁止されている。9.11以降は随分チェックが厳しくなったらしい。
ゲートをくぐって間もなくのところで、基地内の簡単な地図を配っている。裏表がそれぞれ日本語・英語になっている。日本語部分をスキャンしたものをアップしておく。Google等のマップや衛星写真で確認すると分かるが、奥のほうまである住宅施設などは含まれず、主要な娯楽施設や艦船見学に必要な場所だけに制限されている。それでも距離で分かるように歩くには充分過ぎるほど広い。
いつも混んでいるという話なので、まず艦船見学に足を運んでみた。15時以降はメインストリートとの分岐路の先は入れなくなる。空母キティホークのいる年はやたら混むらしいが、今年は任務中ということで別の艦船の公開であった。
第七艦隊旗艦でもある揚陸指揮艦ブルーリッジとミサイル駆逐艦マスティンである。ブルーリッジは大きくて目立つせいもあり多くの人が並んでいた。といっても入れるのは入口からの通路、
その脇にある歴代の国防長官、艦長等の写真一覧(テレビでよく見る顔も写真のようにあった)、階段を上がった先の甲板といった程度である。それでも滅多に無い機会でもあるし、物珍しさも手伝ってなかなか楽しめた。
広々とした甲板は格好の写真撮影所と化していた。艦としてはベトナム戦争撤退あたりから任務に着いており、古参だが比較的奇麗に保たれており、よく整備されているのではないかという印象を受けた。最も第七艦隊の旗艦が整備されてないわけはないのだろうが。
もう一方のミサイル駆逐艦マスティンはやや奥にあり小さめであるせいか、あまり足を運ぶ人はいなかった。しかしフェーズド・アレイ・レーダーが確認出来る通りイージス艦艇で、恐らく新しいのであろうしこちらがより興味深いかもしれない。(後で調べたら21世紀になってからの就役でやはり新しい)
こちらも甲板に中ほどから上がって前部を一周りする程度で、5インチ砲、VLS発射口が確認できる程度。甲板側面に何台か機関砲が取り付けられており、監視も兼ねて紹介していた。ヘリポートは後部で見られなかったが、写真で示したようにブルーリッジからの眺めは良かった。
艦船見学が一通り終わったのでメインストリートに戻る。距離は結構長い。早速屋台があるかと思いきや、しばらく進んだ先ではカーショウをやっていた。日本ではあまり見られないタイプの車が並んでいる。日本は世界的に見ても売っている車種の多い部類の国に入るが、この種のオープン・カプリオレのスポーツカーの類は例外的に少ないように思う。物珍しそうに見る人も多い。50台くらいは展示されていたような印象で、車好きにはかなり大穴なイベントかもしれない。ちなみに半分くらいは日本ナンバーがついていた。在日米軍の人が自分で乗っている車でも見せているのだろうか?
もう少し進むと一休み出来るKosano Parkがあり、写真に示すように木陰にもなっていてゆっくり出来る。この付近で屋台の食べ物を食している人が多く、比較的混雑していた。それを横目に過ぎていくと屋台が沢山あるイベントの中心地に近くなる。上記マップだと一番大きな丸で示されている部分だ。もっとも狭い空間ではない。
沢山のレーンが横に並んでいるボーリング場のサイズをマップで確認して貰えると一目瞭然だ。しかしこのボーリング場、普段はどのくらいの使用率なのだろうか。
屋台は非常に多くの数が出ている。各部隊ごとで出しているのだろうか?結構多くの屋台で日本人スタッフがサポートしており、日本語でも何とかなっている。大味だがものによってはまずまずで、ポークの串刺しなどは結構美味だった。しばらく噛んでいると味わいが出てくる。微妙に肉食人種の気分。食べ物だと、他にグラタンやチキンの類はあまりうまいとは言えなかったが、ホットドッグとかハンバーガーはまずまずで、バーベキュー的に焼き上げるものがいい味になっていたように思う。さすがにそれは得意なのだろうか。なお買い物は日本円でもドルでも可能になっていた。為替レートは店によって違う。Tシャツなどを売っている割とちゃんとした模擬店が並んでいるコーナーでは1$=\120くらいだが、食べ物の屋台では大半が1$=\100。単に計算が面倒なだけだと思うが微妙に面白い。まぁ元々商売目的でも言うわけでもないだろう。ちなみに土産にフレンドシップTシャツを購入。かなり大きなサイズまであるので体型で悩む人にはいいかもしれない。
ファーストフードの類が多く入っているNEX foodcoatも面白い。日本であまりみないブランド多し。ドリンクは各店で買うのだが、販売するのは各店の名前の入ったカップだけ。中心部分に日本のファミレスにあるようなドリンクバーの設備が備わっている。どう見ても日本のファーストフードで言うLサイズにしか見えないのだが、被せたフタはsmallと表記が。無論予想出来たことではある。
この付近で一度トイレ・・・・ドア、高すぎます。夏だからともかく、冬でコートをかける事があればも全く届きません。私は背の低いほうではないのだが・・・・
普段は映画を上映していることが多いシアターでバンド演奏があると聞いて足を運ぶ。16:00からの2回目の公演。中に入ると、恐らく2000人前後の収容能力のホール。座席はゆったりしていて、普通に体を沈めると足の前を悠々人が横切れるくらい前席との間隔が空いている。ちなみに全席ドリンクホルダーつき。すっかり涼みに来たような形になってしまった。先のボーリング場もそうだが、どうせ日本の思いやり予算で運営しているのだからもう少し使わせろという気分だ。というか日本のコンサートホールや映画館もこうならないものか。
後で調べて分かったことだが、この第七艦隊バンドは正規の軍楽隊のようだ。結構あちこちで活躍しているようだ。実際かなりうまいと感じた。私はこの方面にとんとうといので曲自体は知らないが、同行者に言わせると国内外の有名な曲ばかりのようだ。
近辺の野外メインステージでも演奏は盛んに行われており、プレステージではダンス。これは親善のためか日本人も多数参加していた。食べ物片手の人々が多く足を止めていた。その裏手には子供のためにAir Toysの一角が用意されていた。日本語訳がフワフワエリアになっているのはまぁ適切か。遊園地などにあるあれだ。大きなものが5つくらいあった。ファミリーでの参加も多いのでこういうのもいいのだろう。
第七艦隊バンド、気に入ったので3回目の公演も聴く。避暑も兼ねているが。バンドのメンバーは同じだが曲は違った。なかなか良かったので満足。デジカメでメモ的に撮影したQuickTimeのファイルをこの付近にアップしておく。(参照1、参照2)趣旨からしてあまりうるさく言わないだろう。
演奏が終わると花火大会を見るためにマップ東の奥へと皆進んでいた。1万発規模の打ち上げと聞いていたが、地方のそれとしては多いほうだろう。打ち上げが始まって実感したが、確かに至近で見れる一等地だ。7:30〜8:15くらいと打ち上げ時間は短めなので、結構連発で上がっていた印象があった。充分満足。
帰りは入ってきた門まで戻ることになったが、長いし混雑してるしで40分くらい歩いた。とにかく広い。一番近くの横須賀中央駅は混んでいるとの事で、近くの別の駅にも誘導の指示が出ていた。花火にあまり興味が無い人は少し早めに引き上げたほうがいいのだろう。
このフレンドシップデー、毎年ろくに宣伝もしないのに、というか本当に隠しているのかと思うくらい情報がとりにくいのだが、それでも地元を中心に毎年かなりの人出のようだ。艦船見学を除き、大学祭みたいなものと言えなくも無い。家が近くの人は、来年足を運んでみてはどうだろうか。
現地は京浜急行線の横須賀中央駅が近い。徒歩で10分程度といったところか。基地への入口は数箇所あるが、フレンドシップデーでの入場は特定の一箇所に指定されている。毎年変わるが今年は三笠ゲートであった。なお立ち入り可能な場所での写真撮影は自由であるが、ゲート近辺だけは禁止されている。9.11以降は随分チェックが厳しくなったらしい。












ファーストフードの類が多く入っているNEX foodcoatも面白い。日本であまりみないブランド多し。ドリンクは各店で買うのだが、販売するのは各店の名前の入ったカップだけ。中心部分に日本のファミレスにあるようなドリンクバーの設備が備わっている。どう見ても日本のファーストフードで言うLサイズにしか見えないのだが、被せたフタはsmallと表記が。無論予想出来たことではある。
この付近で一度トイレ・・・・ドア、高すぎます。夏だからともかく、冬でコートをかける事があればも全く届きません。私は背の低いほうではないのだが・・・・



第七艦隊バンド、気に入ったので3回目の公演も聴く。避暑も兼ねているが。バンドのメンバーは同じだが曲は違った。なかなか良かったので満足。デジカメでメモ的に撮影したQuickTimeのファイルをこの付近にアップしておく。(参照1、参照2)趣旨からしてあまりうるさく言わないだろう。

帰りは入ってきた門まで戻ることになったが、長いし混雑してるしで40分くらい歩いた。とにかく広い。一番近くの横須賀中央駅は混んでいるとの事で、近くの別の駅にも誘導の指示が出ていた。花火にあまり興味が無い人は少し早めに引き上げたほうがいいのだろう。
このフレンドシップデー、毎年ろくに宣伝もしないのに、というか本当に隠しているのかと思うくらい情報がとりにくいのだが、それでも地元を中心に毎年かなりの人出のようだ。艦船見学を除き、大学祭みたいなものと言えなくも無い。家が近くの人は、来年足を運んでみてはどうだろうか。
2006年01月13日
総務省と放送・通信業界に関する最近の印象
内閣改造にて竹中氏が総務相となったが、これは当時から注目してもいい出来事かなと思っていた。良くも悪くも小泉首相の改革路線を進めている中心人物の一人だからだ。今回はFinancial Timesで取り上げられているのが目を引いた。(参照)iPODにやられたSONYなどを例に引き、商習慣と既得権益がビジネスチャンスを逸しているとしている。
社会の改革というものは、概して民主主義国では議会政治家が最初に担うことが多い。何だかんだと言っても、国民に直接選出された人物であるというのは意味があるのだろう。そして国民のサイレントマジョリティはそれをかなりわずかの時間で理解するように思われる。むしろ知識人や官僚の類が硬直的だ。そして民間企業といっても、既存の社会の仕組みで利益を受けている立場の企業は意識として遅れている事が多い。この典型は大手マスコミだろう。NHKと民放のキー局5社は、電力会社や航空会社あたりと並んで民間最大の既得権益と言えないだろうか。現在の日本は、政治改革は一段落し、民間の改革というフェーズに入っているという考え方があるようだ。それは当たっているかもしれない。
少し面白いと思った例として、委託放送業務の認定がある。(参照2)MUSE方式のアナログハイビジョンはBS-9で放送されているが、これが2007年と他のアナログ放送より早い時期に打ち切られる。その空いた帯域で放送する事業者を募集していたのだが、BSという比較的公共性が高い電波に、有名企業がバックにいるとはいえ、ワールド・ハイビジョン・チャンネルという新規事業者の参入を認めている。ささやかな始まり方ではあるが興味深い。
この地上デジタル放送を巡る答申もかなり興味深い。(参照3)PDFの本文を読んでみると、放送業界よりは家電メーカーの見解が重視されている感がある。地上デジタル放送の推進は、そもそも2011年の停止という事自体そもそも無理があると思うのだが、それを大義名分にする形で様々な既得権益の打破を狙っている感もある。ただこれは思想というより、国民全体での経済的利益を重視するという合理的な実利主義の政権の性格だろう。単純な話で、放送局がコピーワンスをやっているおかげでポータブルビデオへのコピーが不便になってビジネスが回らないからどうにかしろ、の類だろう。まぁ、それが視聴者にとって良いものであれば別に文句はない。
社会の改革というものは、概して民主主義国では議会政治家が最初に担うことが多い。何だかんだと言っても、国民に直接選出された人物であるというのは意味があるのだろう。そして国民のサイレントマジョリティはそれをかなりわずかの時間で理解するように思われる。むしろ知識人や官僚の類が硬直的だ。そして民間企業といっても、既存の社会の仕組みで利益を受けている立場の企業は意識として遅れている事が多い。この典型は大手マスコミだろう。NHKと民放のキー局5社は、電力会社や航空会社あたりと並んで民間最大の既得権益と言えないだろうか。現在の日本は、政治改革は一段落し、民間の改革というフェーズに入っているという考え方があるようだ。それは当たっているかもしれない。
少し面白いと思った例として、委託放送業務の認定がある。(参照2)MUSE方式のアナログハイビジョンはBS-9で放送されているが、これが2007年と他のアナログ放送より早い時期に打ち切られる。その空いた帯域で放送する事業者を募集していたのだが、BSという比較的公共性が高い電波に、有名企業がバックにいるとはいえ、ワールド・ハイビジョン・チャンネルという新規事業者の参入を認めている。ささやかな始まり方ではあるが興味深い。
この地上デジタル放送を巡る答申もかなり興味深い。(参照3)PDFの本文を読んでみると、放送業界よりは家電メーカーの見解が重視されている感がある。地上デジタル放送の推進は、そもそも2011年の停止という事自体そもそも無理があると思うのだが、それを大義名分にする形で様々な既得権益の打破を狙っている感もある。ただこれは思想というより、国民全体での経済的利益を重視するという合理的な実利主義の政権の性格だろう。単純な話で、放送局がコピーワンスをやっているおかげでポータブルビデオへのコピーが不便になってビジネスが回らないからどうにかしろ、の類だろう。まぁ、それが視聴者にとって良いものであれば別に文句はない。
2005年05月02日
JR脱線事故で考えたこと
JR西日本の脱線事故は世間で散々話題になっているし、今更という気もするが、ちょっと思ったことを書いておきたい。
この件に関してはR30氏が良いポイントを押さえている。(参照)「現場に二律背反となるルールを課してはいけない」という点だ。確かに優先順位をきっちりつけておく事は重要である。しかし、この事故に少しばかり日本的な風景を見た気もする。
日本の労働者は、欧米のそれと違って各従業員が会社に果たす役割をきっちり決められているわけではない。日本人は全般として教育水準が高いせいという事もあり、会社の従業員の、かなり現場の平に近い部分まで会社のことを考えて行動するという傾向がある。自分の労働力を短期的に切り売りすると割り切っている人は少なく、将来的に会社のトップ近くまで行く「可能性」であればかなり多くの人が感じている。実際建前としてはかなりそうなっている。それゆえホワイトカラーの上層部が考えるような事を現場で必要以上に考えるという傾向がある。
これは運転手の意識を考えると分かりやすいのではないか。私はJR内部の状況を熟知しているわけではないが、若くて列車の運転を任せられるとなると、それはエリートの駆け出し的な意味合いが強くなるのではなかろうかと推察される。会社や部門のマネージメントをする際には、二律背反的な複数のファクターがある中、それをバランス良く調和させて全体としての最適解を出さなくてはいけない。ただそれをブレイクダウンすれば個々人がこなすべき役割は比較的単純にはなる。そこまでの割り切りを各人がやれず、恐らく課長とかグループリーダークラスに過大な負荷がかかり、将来にそれなりの志はある多くの現場担当者もその意識を共有したのではないか。その意味で韓国あたりの新聞が揶揄する「後進国的な事故」というより、先進国の極限、いや、「あまりにも日本的な事故」として現れたのではないか。
この問題、ミクロで見ればJR西日本は責められて然るべきであるし、責任は果たさねばならない。しかしマクロ的には、様々なファクターを高いレベルでバランスを取ったサービスを当然として求めるような市場であるからには、ある低い確率でこの種の大規模な破綻が生じることは、我々日本人は腹の底では覚悟として持って置かねばならないだろう。もちろんそれはJRを免罪することに繋がらないし、再発防止策を怠って良いという話でもない。遺族の悲嘆や怒りを否定するものでもない。ただ事実ベースとしては、イタリアの一部みたいに列車が30分遅れても問題にしないような社会であれば発生しなかった事故ではある。高いレベルのサービスを求めるなら、その負担はどこかが負わねばならぬというだけの話だ。
この種の問題は様々な側面で発生する。食物の偽装問題などもそうだろうか。モラル上誉められたことではないが、極限的に切り詰められた損益分岐点を綱渡りした結果のようでもある。人間社会が聖人君子ばかりでない以上どこかで発生する。だから外部チェックのたぐいが必要なのだろう。それに社会のサービスや技術が高度化するに従って、何か事が起こった場合の被害の規模は拡大している傾向にある。飛行機事故などが典型か。列車も運行速度が速くなれば事故の際の死傷者は増える。事故の確率は低下し、被害の規模は拡大するという事実がますます問題を困難にする。何しろ我々の社会は、一定以下の確率の危険は無視するという暗黙の了解で全て動いている冷厳な事実があるのだ。交通事故しかり、夏に必ず起こる水の事故などもそうだが。そして原子力発電も典型的な問題ではある。
そしてこの種の極限的な課題が安全保障問題だろうか。世界で屈指の高い安全保障のサービスを政府に求めつつ、GNP比としては世界最低水準の負担しか容認しない。国民にその自覚があればまだ良いが、当然視して何か事が起こったら「政府はこうなるまで何をしていた」となりそうな気がする。様々な所で無理が発生しており、その無理は問題の隠蔽や困難な問題のアメリカへのアウトソーシングで片付けている。政府はもっと正直かつ率直に、問題を議論の遡上に載せるべきではないか、と思う。
この件に関してはR30氏が良いポイントを押さえている。(参照)「現場に二律背反となるルールを課してはいけない」という点だ。確かに優先順位をきっちりつけておく事は重要である。しかし、この事故に少しばかり日本的な風景を見た気もする。
日本の労働者は、欧米のそれと違って各従業員が会社に果たす役割をきっちり決められているわけではない。日本人は全般として教育水準が高いせいという事もあり、会社の従業員の、かなり現場の平に近い部分まで会社のことを考えて行動するという傾向がある。自分の労働力を短期的に切り売りすると割り切っている人は少なく、将来的に会社のトップ近くまで行く「可能性」であればかなり多くの人が感じている。実際建前としてはかなりそうなっている。それゆえホワイトカラーの上層部が考えるような事を現場で必要以上に考えるという傾向がある。
これは運転手の意識を考えると分かりやすいのではないか。私はJR内部の状況を熟知しているわけではないが、若くて列車の運転を任せられるとなると、それはエリートの駆け出し的な意味合いが強くなるのではなかろうかと推察される。会社や部門のマネージメントをする際には、二律背反的な複数のファクターがある中、それをバランス良く調和させて全体としての最適解を出さなくてはいけない。ただそれをブレイクダウンすれば個々人がこなすべき役割は比較的単純にはなる。そこまでの割り切りを各人がやれず、恐らく課長とかグループリーダークラスに過大な負荷がかかり、将来にそれなりの志はある多くの現場担当者もその意識を共有したのではないか。その意味で韓国あたりの新聞が揶揄する「後進国的な事故」というより、先進国の極限、いや、「あまりにも日本的な事故」として現れたのではないか。
この問題、ミクロで見ればJR西日本は責められて然るべきであるし、責任は果たさねばならない。しかしマクロ的には、様々なファクターを高いレベルでバランスを取ったサービスを当然として求めるような市場であるからには、ある低い確率でこの種の大規模な破綻が生じることは、我々日本人は腹の底では覚悟として持って置かねばならないだろう。もちろんそれはJRを免罪することに繋がらないし、再発防止策を怠って良いという話でもない。遺族の悲嘆や怒りを否定するものでもない。ただ事実ベースとしては、イタリアの一部みたいに列車が30分遅れても問題にしないような社会であれば発生しなかった事故ではある。高いレベルのサービスを求めるなら、その負担はどこかが負わねばならぬというだけの話だ。
この種の問題は様々な側面で発生する。食物の偽装問題などもそうだろうか。モラル上誉められたことではないが、極限的に切り詰められた損益分岐点を綱渡りした結果のようでもある。人間社会が聖人君子ばかりでない以上どこかで発生する。だから外部チェックのたぐいが必要なのだろう。それに社会のサービスや技術が高度化するに従って、何か事が起こった場合の被害の規模は拡大している傾向にある。飛行機事故などが典型か。列車も運行速度が速くなれば事故の際の死傷者は増える。事故の確率は低下し、被害の規模は拡大するという事実がますます問題を困難にする。何しろ我々の社会は、一定以下の確率の危険は無視するという暗黙の了解で全て動いている冷厳な事実があるのだ。交通事故しかり、夏に必ず起こる水の事故などもそうだが。そして原子力発電も典型的な問題ではある。
そしてこの種の極限的な課題が安全保障問題だろうか。世界で屈指の高い安全保障のサービスを政府に求めつつ、GNP比としては世界最低水準の負担しか容認しない。国民にその自覚があればまだ良いが、当然視して何か事が起こったら「政府はこうなるまで何をしていた」となりそうな気がする。様々な所で無理が発生しており、その無理は問題の隠蔽や困難な問題のアメリカへのアウトソーシングで片付けている。政府はもっと正直かつ率直に、問題を議論の遡上に載せるべきではないか、と思う。
2005年04月05日
名張毒ぶどう酒事件再審に思う
何分私の生まれる前の事であるから感覚としてもピンと来ないが、かねてより死刑確定囚の中では冤罪の可能性が高いとされてきた同事件で、再審が認められたようである。同事件に詳しいわけでもないし、事件そのものについてはコメントは控えたい。ただ今になって再審請求が認められたという事で、司法の判断としても冤罪である可能性が高いか、少なくとも証拠不充分であるとしたのだろう。
私自身は明確な死刑存置論者でも廃止論者でもない。ただどのような凶悪な犯罪でも死刑にならないのは理不尽とは思うし、冤罪の可能性がある以上リスクを伴う側面がある事も否定できないと思うだけである。しかし治安が良好に推移し、社会の選択として死刑を廃止するとなればそれはそれで良い社会であろうとの思いはある。途上国では実質難しいが、日本のような先進国では、少なくとも少し前までは可能であったのではないか。ただ昨今の荒れてきた社会では市民感情としても困難かも知れない。欧米での死刑廃止はキリスト教文化云々というが、むしろ米国で死刑の多い南部は敬虔な信者が多くないか。仏教でも殺生は禁じているし、事実平安時代の廃止例はある。結局その時代、その地域なりの犯罪発生率や住民感情を踏まえた社会の選択という気もする。
今回思ったのは歴代の法務大臣の選択だ。死刑は法務大臣の許可があれば執行するとある。逆に言えば、当然ながら許可がないと執行出来ない。そしてこの事件は歴代の法務大臣が許可しなかった。だから今まで生きてきたと言える。獄死に終わった帝銀事件も同様である。
就任するとき死刑廃止を挙げて一度も印を押さなかった大臣がいる。職務放棄だと批判された。それなら法務大臣の職に就くべきでないと。確かに批判は理があるように思える。しかしながら、ではなぜこのような規定があるのか。ロボットのように機械的に印を押すだけであればこのような条文は必要ない。もちろん条文を廃止しろとの意見はあるだろう。しかし現実としてあり、これを廃止するような動きは、少なくとも本格的には無かったように思われる。やはり最高刑、しかも回復不能の刑を科すとなれば、司法のみならず民主政治における国民の負託がある行政の責任者が認可するというのは意味があるだろう。そして大臣がどうしても印を押せないような事件であれば、それは執行しないほうが良いという意見に一理は無いか。少なくとも、前記の大臣を批判し、後任として法務大臣の職につき、多くの許可書に印を押した人物もこの事件には押せなかったのだ。もちろん司法のあり方として本筋ではない。しかしそれなりに意味があったとは言えまいか。
大臣などあっという間にその職を辞すもので、その間だけお客さんとして扱えば良いという意見は官僚にしばしばある。しかし大局的に見れば、やや透明性が欠け、誤りを認めるのにやや硬直性があるかもしれない日本の司法において、「外部の冷静な目」として歴代の法務大臣は機能したようにも思う。少なくとも彼らは選挙民と向かい合って議会にその席を得た人々である。そしてこの構図は法務省に留まらないだろう。本ブログで主に扱っている外交や安全保障問題も、大事な部分は議会政治家が中心になって決めてきたのだ。そして官僚のそれより判断は正しかったように思う。
もちろん司法制度を整備することが疑いも無く本筋である。整備すれば真面目な日本人は丁寧に仕事をやり、良質な結果が得られるだろう。それもまた政治家の仕事である。
私自身は明確な死刑存置論者でも廃止論者でもない。ただどのような凶悪な犯罪でも死刑にならないのは理不尽とは思うし、冤罪の可能性がある以上リスクを伴う側面がある事も否定できないと思うだけである。しかし治安が良好に推移し、社会の選択として死刑を廃止するとなればそれはそれで良い社会であろうとの思いはある。途上国では実質難しいが、日本のような先進国では、少なくとも少し前までは可能であったのではないか。ただ昨今の荒れてきた社会では市民感情としても困難かも知れない。欧米での死刑廃止はキリスト教文化云々というが、むしろ米国で死刑の多い南部は敬虔な信者が多くないか。仏教でも殺生は禁じているし、事実平安時代の廃止例はある。結局その時代、その地域なりの犯罪発生率や住民感情を踏まえた社会の選択という気もする。
今回思ったのは歴代の法務大臣の選択だ。死刑は法務大臣の許可があれば執行するとある。逆に言えば、当然ながら許可がないと執行出来ない。そしてこの事件は歴代の法務大臣が許可しなかった。だから今まで生きてきたと言える。獄死に終わった帝銀事件も同様である。
就任するとき死刑廃止を挙げて一度も印を押さなかった大臣がいる。職務放棄だと批判された。それなら法務大臣の職に就くべきでないと。確かに批判は理があるように思える。しかしながら、ではなぜこのような規定があるのか。ロボットのように機械的に印を押すだけであればこのような条文は必要ない。もちろん条文を廃止しろとの意見はあるだろう。しかし現実としてあり、これを廃止するような動きは、少なくとも本格的には無かったように思われる。やはり最高刑、しかも回復不能の刑を科すとなれば、司法のみならず民主政治における国民の負託がある行政の責任者が認可するというのは意味があるだろう。そして大臣がどうしても印を押せないような事件であれば、それは執行しないほうが良いという意見に一理は無いか。少なくとも、前記の大臣を批判し、後任として法務大臣の職につき、多くの許可書に印を押した人物もこの事件には押せなかったのだ。もちろん司法のあり方として本筋ではない。しかしそれなりに意味があったとは言えまいか。
大臣などあっという間にその職を辞すもので、その間だけお客さんとして扱えば良いという意見は官僚にしばしばある。しかし大局的に見れば、やや透明性が欠け、誤りを認めるのにやや硬直性があるかもしれない日本の司法において、「外部の冷静な目」として歴代の法務大臣は機能したようにも思う。少なくとも彼らは選挙民と向かい合って議会にその席を得た人々である。そしてこの構図は法務省に留まらないだろう。本ブログで主に扱っている外交や安全保障問題も、大事な部分は議会政治家が中心になって決めてきたのだ。そして官僚のそれより判断は正しかったように思う。
もちろん司法制度を整備することが疑いも無く本筋である。整備すれば真面目な日本人は丁寧に仕事をやり、良質な結果が得られるだろう。それもまた政治家の仕事である。
2005年03月31日
区域外再送信という問題
所詮個人の日記であるので、世界情勢を中心としながらも他の話題も適当に取り上げてみたい。今回はテレビ放送に関して思うところを。
CATVの区域外再送信が問題になっている。建前としては電波の届く範囲に再送信をするというものであったが、そうでない地域にも伝送している現状が、デジタル化で再度問題視されているという話だ。具体的にはこのような事になっているらしい。まぁ、放送局側としては文句もつけたくなろうし分からなくも無い。
しかしながら、日本人のメンタリティーは本来どういうものであろうか?アナログBS放送が独自コンテンツを流し始めた時のブレイク振りから始まり、近年でもCSデジタル放送は急峻な立ち上げに成功し、その後の経過もまずまずであるようだ。それに比較して、地方独自の展開というのはどうもうまくいかないように思う。結局多くの日本人は在京キー局をそのまま見たいというのが主要な要求で、独自チャンネルは地方情報などのために1ch程度あれば十分という程度のものではないか。衛星放送も考えると、要は全国均一を内心求めているということであろう。
そして通信・放送技術の発達は距離の制約を取り外す方向にある。長期で考えれば物事は合理的な選択がされるものだ。そう考えると地方のUHF放送局も、地方に住む人だけでなく上京した人も対象にして、CSなりブロードバンドなりで日本全国あまねく流し、全都道府県の独自コンテンツを日本全国どこでも好きに見れるというのが理想ではないだろうか?近年の日本の悪い癖だが、とにかく縮小均衡、守ることしか考えないので経済が沈滞するのだ。総務省に喧嘩を売るのがソフトバンクだけでは仕方が無いと思うのだが。
この地域で分けるというのはNTT分割の時にも見られたが実に意味が無い。せめて業種とすべきだろう。そして通信のみならず、最近は物流コストまで徹底的に圧縮されている。「野菜を刻むのにヨーロッパ大陸を縦断して往復する」と叩かれているというのが現代世界の様相である。
距離の問題が完全に消失したわけではない。しかしどの部分が今でも残り、どの部分が近年はそうでないのか冷静に考えると、「アジアの連携」を過剰に強調する奇妙な議論も出てこないと思うのだが。
CATVの区域外再送信が問題になっている。建前としては電波の届く範囲に再送信をするというものであったが、そうでない地域にも伝送している現状が、デジタル化で再度問題視されているという話だ。具体的にはこのような事になっているらしい。まぁ、放送局側としては文句もつけたくなろうし分からなくも無い。
しかしながら、日本人のメンタリティーは本来どういうものであろうか?アナログBS放送が独自コンテンツを流し始めた時のブレイク振りから始まり、近年でもCSデジタル放送は急峻な立ち上げに成功し、その後の経過もまずまずであるようだ。それに比較して、地方独自の展開というのはどうもうまくいかないように思う。結局多くの日本人は在京キー局をそのまま見たいというのが主要な要求で、独自チャンネルは地方情報などのために1ch程度あれば十分という程度のものではないか。衛星放送も考えると、要は全国均一を内心求めているということであろう。
そして通信・放送技術の発達は距離の制約を取り外す方向にある。長期で考えれば物事は合理的な選択がされるものだ。そう考えると地方のUHF放送局も、地方に住む人だけでなく上京した人も対象にして、CSなりブロードバンドなりで日本全国あまねく流し、全都道府県の独自コンテンツを日本全国どこでも好きに見れるというのが理想ではないだろうか?近年の日本の悪い癖だが、とにかく縮小均衡、守ることしか考えないので経済が沈滞するのだ。総務省に喧嘩を売るのがソフトバンクだけでは仕方が無いと思うのだが。
この地域で分けるというのはNTT分割の時にも見られたが実に意味が無い。せめて業種とすべきだろう。そして通信のみならず、最近は物流コストまで徹底的に圧縮されている。「野菜を刻むのにヨーロッパ大陸を縦断して往復する」と叩かれているというのが現代世界の様相である。
距離の問題が完全に消失したわけではない。しかしどの部分が今でも残り、どの部分が近年はそうでないのか冷静に考えると、「アジアの連携」を過剰に強調する奇妙な議論も出てこないと思うのだが。