2010年12月27日

民主党政権と昨今の国内情勢

 何とか生活は出来ている。定期的な更新に復帰できれば、とは思っているのだが。

 書きたいことは色々あるのだが、昨今の民主党政権と国内情勢に関して、少しばかり所見を述べてみたい。今の日本が問題山積であることは間違いなくはあるが。もっともEUも散々な情勢ではある。ユーロ安でのドイツの風景とか、あれは何だろう。そりゃ庶民には輸出企業の恩恵の実感は薄いだろうが。

民主党政権:
 鳩山内閣はもちろん。管内閣になっても評判は散々なようだ。しかし私としては、世間の反応がむしろ妙に思える。事前の期待があまりに高すぎたようにしか見えないのだ。悪くすると日米安保が飛ぶ確率も2割くらいあるかなと思っていたのでこの程度の被害なら自民政権と大差ないので止む無しかと思っている。いや、皮肉ではなくて。結局、これは思想より実益を重視するという日本の伝統的な政治の風景を民主党もまた反映した結果なのだろうと思う。
 さて、現実の政権の出来という意味では、例えば小泉内閣と比較すると全く稚拙なのであろう。しかし小泉内閣は結果として業績は道半ばであった。最終的な歴史の評価としては、国民に改革を期待させながらそれを貫徹せず、貴重な時間を浪費したという定義で決着するように思えてならない。もちろん、これには色々と理由もあるのだろう。国民の容認度をチェックしながら進めた結果、急進的な改革は無理だと判断した節がある。竹中−中川秀直ラインの政策あたりはそのように見えた。しかしある程度の支持を有していた時期には多少無理をしてもチャレンジするのは支持率の高い政権の使命ではなかったのか、とも思う。例えば少子化問題などはどうか。確かにこういう究極のパーソナルな権利に関しては関与そのものを好まない性格の政権ではあったろう。しかし当時の団塊ジュニアの年齢を考えれば、英仏あたりの政策のバリエーションは必要だったと思える。雇用に関してはいうまでもない。硬直的な慣行には手を付けられなかった。防衛政策も集団的自衛権の問題は放置していた。つまりは勇気が不足していたのだろう。トニー・ブレアのように国民のために泥をかぶるというようなものが。結局国民の名における失敗を得ることは出来なかった。せめてそれが必要だったと思うが。
 一方民主党政権であるが、防衛政策などの一部で、かなり右派的な政策が通っている。これは政治家の力量というより、左派政権では右派的な政策を実行しやすく、右派政権では左派的な政策を実行しやすいという単純な力学の結果だと考えるべきであろう。恐らくこのブログを読んでいる人は、今まで政治が成熟した他の民主国家のようにならないことに疲れ切った知識人が大半だと思う。しかし冷厳な事実としては、政権が交代し、その執政の事実を評価するという、まさに現実を目の前にするというプロセスを踏まない限り、有権者の多数派に適切なコンセンサスは発生しないものなのだろう。民主主義はようやく再始動したばかりであり、後数回の衆院選を経ないと政党が政策で切磋琢磨する状況にはならないであろう。いずれにせよ、当面はこの惨状である。20年前にこの手順が踏めていれば、とは思うが。もちろん途中過程は混乱だらけである。ただ内容を仔細に見ると、民主党は政策は洗練されておらず大雑把だがやや速度重視という面もありそうだ。自民党だとまるで進まなかった面もある。となれば、民主党が強引に法案を準備して通し、政権交代した自民党が手直ししてまともなものにする、というパターンを前向きな構造として望めるかもしれない。もちろん現状では単なる希望の域を出ない。

経済政策:
 民主党政権下においては、(無理筋だとしても)単純に増税して福祉強化という流れかとも思っていた。しかし実際は必ずしもそうではない。競争力も重視しているという点では欧州の非マルクス的な中道左派に近い。妥協の産物ではあるが旧民社党あたりの位置にも近く本来のポジションかもしれない。しかし、国債発行に歯止めはかからないようだ。増税して福祉カットというのは無理そうなので、政策的にコントロールできないであろう長期金利の上昇を待つ形になるのだろう。これがまるで先が読めない。高齢化社会の現状、ずるずると歳出が拡大する見通ししかない。

格差問題、ベーシック・インカムの議論:
 この件は数字の積み上げが大事なので、ここでは全般的なトレンドだけ述べてみたい。それは給付、もしくは国からの手当や補助に関してである。項目を単純に列挙してみる。

・基礎年金
・医療費
・生活保護
・失業手当
・児童手当
・出産奨励
・その他、人権意識の進展による国からの補助

 いわゆる先進国に分類される国では、高齢化と低スキル労働者の失業率増大により、このように市場での解決が難しい給付的費用が増大している。そして個人間の経済的な価値の格差も増大傾向にある。昨今の格差問題の議論は混乱しているが、私は単純化すると次のようなものだと思っている。すなわち、グローバル化とIT革命により、知識人階級を中心として生産性の極端な向上が達成された。そのため、個人間の経済的な価値は格差が増大した。これがそのまま各個人の収入や社会的価値に反映されるのであれば、まだしも不満を抱く人も納得はしやすいのであろう。しかし社会は資本主義のルールで動いており、企業という組織単位で優劣勝敗は決定される。ここでの企業は中小企業や個人事業主も含めた広義のものである。もちろん圧倒的な競争力を持った個人事業主が良いのは間違いがないが、リスクもあるしそこそこ優秀というくらいではなれそうもない。そして競争は激しく企業の倒産も多い時代であるから、大企業に就職したり公務員になるインセンティブが一貫して増大している。日本のように一度属した組織から強制的に脱退させられることの少ない国ではなおさらである。世代間格差や新卒就職の問題など、本質はは全てここに帰着する。この問題は通常では永続性が高いと考えられるので、長期的には解雇規制の緩和などで流動性を高めることでしか解決出来ない。そのためある種の給付などセーフティネットは必須となる。
 上記の事情により、国からの給付的な費用はとにかく増大し続けるというのが近未来の見込みである。政治レベルではこれを単純化して効率的なものにしたいという事に継続的なインセンティブが発生する。そのためベーシック・インカムかもしくはそれに近い単純な基礎的給付制度の導入に日本(と多分欧州)は追い込まれていくのではないか、というのが私の考えである。ただしEUの一国が導入するのは現状かなり不可能に近い。
 実際の導入に関しては細部に魂が宿る的な様相を呈し、感情的な反発を抑え込むことに労力の大半が割かれるのだろう。一例として、給付打ち切りを回避するために就労しないということは無くなる、などという事例を強調するなどといったところか。ただ現在から80年代あたりの過去を振り返ると低スキルの継続的な労働者にベーシック・インカムがかかっていたと考えることもできる。そういう「旧き佳き過去」を想起させることも念頭に置いて、継続的な就労にはベーシック・インカムの金額を増大させるとかいう手段も執られるかもしれない。ただ今の民主党政権では、こういう現実に適用する段階で手を抜いて頓挫する傾向がある。
posted by カワセミ at 17:06| Comment(4) | TrackBack(1) | 国内政治・日本外交

2007年07月25日

日本における参院選の意味とは

 参院選であるが、周知のように自民党は厳しい情勢である。ただこれは日本の政治状況を考えると無理からぬ面もあろうかと思う。第二衆院にすぎないなどと言われることもあり、参院の意義がしばしば問われている昨今、これを機に自分の考えをメモしておきたい。(最初はM.N.生さんへのコメントとして書いていたのですが、長くなったのでエントリにしておきます)

 まず参議院に関する私の考え。しばしば一院制への移行などが話題に上がる。私はこれは適切でないと思うし、強く反対する。周知のように日本は議院内閣制で、行政府に対する直接選挙がない。まずこの事を認識しておかないといけない。県知事はあるが、これも周知のように地方政府の権限、県民の自治意識も、他の工業国と比較すれば良く分かるが、それほど高いものではない。日本のような人口の多い、複雑で多様な社会と産業構造を持つ国には、政治への多様な反映の場が必要である。この二院の選挙が実質この国の政治に対する有権者の判断の多くを決める。一院制への移行が適切になることがあるとしたら、それは道州制などが比較的うまく機能し、地方政府の議会などが強力な存在になり、中央政府と一定の緊張関係を持ちながら切磋琢磨するような状況になった時ではないかと思うのだが、日本の近未来には望み薄のように思う。それ故必要なのは改革されたより活発な二院制と地方議会の着実な進歩ではないだろうか。

 さて、議院内閣制であるからには有権者の行政府へのチェックは間接的なものである。そして党首選は(近年党内選挙の民主化が進んできたとはいえ)あくまで党員が決めるもので有権者の決定は直接及ばない。そして日本は自民党が与党として強力で野党は弱体。さらに与党の選ぶ首相は行政府の長としては「外れ」がたまにある。言い方はきついが、例えば英国とかはもちろん、政治体制の似た欧州諸国の多くと比較してもそうではないだろうか。国民の民度を考えると、もう少し精選された人材を期待してもおかしくはないだろう。

 日本の基本的な政治状況は上記の通り。ではここで政治力学として何が発生するか。衆院選に関しては「どの政党に政権を託すか」の選択となる。野党の怠慢から自民党が継続的に強いであろう。では参院選は?どの政党に政権を渡すかは選択できないが、選挙結果によって党に対する評価の高低は示される。そしてその最大責任は党首であり、与党においてはイコール内閣総理大臣となる。つまり、政権に対する審判を間接的に表現することは可能であり、出来の悪い政権を降ろしたり、出来のいい政権に信任を与えるという政治的結果は選挙によって発生させることが可能であろう。橋本政権下での降板はイレギュラーだという意見があるが、私はそうは思わない。むしろこれは構造の問題であり、同様の局面はこれから参院選になるたびに高い確率で発生すると思う。

 とはいうものの、これは大局的に見ると、過渡的時期における仮の合理的帰結であって、この状況が良いかとなるとやはりそうは思わない。それ故改革の必要性があるが、上記の現在の政治的現実を踏まえると、党首選における参議院議員の発言力強化という方向性は考えられないだろうか。党首選での一票の重みを衆議院より大幅に重くするのである。「良識の府」というのは今となっては半ば建前ではあろうが、長い任期でじっくり物事に取り組めるのは間違いない。それを利用して党首選もやや時間をかけてやる。広く国民一般の党員も巻き込んでである。ただ恐らく定数の大幅削減など荒療治は必要となるだろうが、参議院の価値を高めるために一つの方法かもしれない。それによって党の有力者を衆議院から参議院にシフトさせる。そして外交などの長期的取り組みが必要な案件には優越を与えるというのもありかもしれない。結果としては米国の上院あたりにやや近い面も出てくるかもしれないが、あれも上院が必ずしも優越院というわけでもなく、「権威」があるというのがミソかなと思っている。いずれにせよ、党員、わけても国会議員自身が参議院を軽視している限り、国民も軽視し何かのツールに使おうとするのは当然であろう。
posted by カワセミ at 02:08| Comment(7) | TrackBack(1) | 国内政治・日本外交

2007年07月02日

歴史認識問題への補足

 forrestal様、エントリでのリンク有難うございます。長くなったのでこちらもTBでコメント代わりのエントリとします。自分の過去のエントリへの補足も兼ねていますが。

 久間氏への発言にはまたかとげっそりしています。ちなみに軽く2chの関連スレを見物していましたが、そこですら前後の発言を踏まえて「学者や評論家ならそういう考え方も確かにあろうが防衛大臣の言としては不用意ではないか」と冷静な意見が多かったのに笑いました。もう言葉がないです。なお日米でこの問題への見解が違うのは当然でしょう。とっくにお読みとは思いますがこれをリンクしておきます。

 歴史認識に関しては、日本人は外国のマジョリティの状況を過剰に気にする傾向があるかと思います。民主主義である限り同じ国内でも多様な見解があり、外国を非難する前に国内ではどうなのかという話になります。例えば従軍慰安婦の決議は問題になりましたが、それでも日本の大手新聞社やテレビ局の多数派よりは冷静ではないでしょうか。まぁ、比較する先があまりに駄目だという話ではありますが。

 何より気になるのは、今回の日本人の(特に右派勢力の)反応の仕方です。昔からある日本人の古典的な性質や文化の反映ですが、やや視野が狭かったかなと思います。外国の歴史認識を気にするときは、どのような性質をもつ個人や組織から出されたものであるかを当たり前に認識し、反応を考えるべきではないでしょうか。例えば今回の米下院、これは山のようにあるどのような決議に対してもそうなのですが、内容のアカデミックな精密さというよりは、米国の大衆の倫理的な立場の表明と、外国がテーマになっているというのであれば、それは米国が注目・関与しているというメッセージであるということではないでしょうか。もし緻密さを求めるとすれば、決議自体の絶対数が今と比較して極めて少ない数となるでしょう。それが米国にとっても世界にとっても、良いことであるとは私には思えないのです。そして上院外交委員会や国務省、大統領にそれぞれ別の役割があり、それぞれに応じた反応の仕方があるというだけではないでしょうか。

 日本人は、例えば国連などでの活動では、緻密で手堅く、間違いがないことで知られています。ただ活動の総量が少なく、最終的なアウトプットの総合評価で良いとは言い難い面もあります。そしてその緻密な間違いの無さを求める潔癖さが裏目に出た典型例かと思います。だからこそ今回の米下院に対しては、まさにその核である米国の倫理的原則と外国に関与していることの表明に対して、日本がそれをどう評価しているかという事を外交的対応の中核とするべきだったと思うのです。その意味で安倍氏の「数ある中の一つ」発言には本当に失望しました。数あるもの全てが、例え一見つまらなく見えるものでもやはり大切なのですから。それを思うと原爆に関してはまだマシかもしれませんね。少なくとも未来に関しては大筋で一致しているのですから。
posted by カワセミ at 23:43| Comment(4) | TrackBack(2) | 国内政治・日本外交

2007年01月14日

憲法改正は参院選の争点になるか

 再び安倍内閣を含めた国内政治雑感を記す。この問題は各議員、各党の方針などを細かく追わないと正確な政治の実態は分からない。しかし違和感や危惧のようなものはあり、それ自体はおかしいものではないと考えるので書き残しておく。

 安倍首相は、年頭に「憲法改正を目指したいという事は参院選でも訴えていきたい」という趣旨の発言をしたと報道されている。各種報道ではあまり強いニュアンスではなかったと感じられるが、発言の内容自体を考えると、参院選の最中に政治課題の一つとして言及するという事に関しては間違いないとしてよかろう。この件、耳にした直後は「意外に政局的にも長けているな、うまい考えだ」と思ったが、同時に大きな違和感も残った。この件はどういう具合に考えるべきであろうか?

 周知の通り、参議院は衆議院と異なり優越院ではない。議院内閣制の原則により政権を担う政党を選択するのはあくまで衆議院である。極端な話、次の参院選で自民党の獲得する議席がゼロになったと仮定しよう。あり得ない仮定だが、それでも政権は自民党が維持する。しかし、ゼロとは言わずとも、期待されるより大幅に少ない議席しか獲得できなかったとすれば、内閣総理大臣は党総裁としての責任を取って辞任せざるを得ないだろう。ここに参院選のやや複雑な性質がある。つまり、自民党政権は望むが、現在の安倍氏が政権を担う事には反対であるという立場に立つ有権者は、あえて野党に投票する可能性がある。後継として次期首相に期待される有力な人物がいればその可能性はさらに強まる。総裁選を戦った麻生氏、谷垣氏、あるいは福田氏、可能性は少ないであろうが小泉前総理の再登板を望む人、考えは色々であろうが変化を望む野党支持者は一定数いるのではないか。
 ここで憲法改正を争点に挙げればどうか。これは憲法改正の必要性を認め、推進しなければならないと考えている有権者を一定程度縛るものとなる。上記のような考えを抱いている有権者も、ちょっと今回の選挙は大事な意味合いがあるから自民党に入れざるを得ないな、と考える人もいるのではないか。その意味で党の政策そのものはおおまかに支持する有権者を繋ぎ止めるにはなかなか良い方法だ。だが憲法改正はそのように選挙の争点にして良いものであろうか?

 憲法改正の手続きには、総議員の2/3の賛成と有権者の過半数の賛成が必要である。この条件自体良い悪いの議論はあり、ルールを改正すべきという意見はあろう。しかし現状がこうである以上、そこから発生する政治的意味合いは確定している。この条件を満たす政治的状況は、「立法を職業としている議会政治家の間に、近未来の政治に対し憲法改正が必要であるという事に関して広いコンセンサスが成立し、国民もその政治家のイニシアチブで発生したコンセンサスを認める」というものである。もちろん議会サイドが国民意識より遅れているという場合もあろうが、議会政治家に改正の必要性とその内容に関して広い合意が無ければならないというのは間違いない。
 自民党と旧社会党の時代はこの合意が成立する事はなかった。硬直的な旧社会党の責任が大きいが、有権者はそのような政党でも野党第一党として扱い、他の野党より大きな支持を与えた。この時代ですら両党の合意があれば憲法は改正できたが、しかしそのような事はなかった。これも政治の現状の反映であり、結局有権者も腹が決まってなかったと言えよう。
 しかし現在の政治情勢はそこまで硬直的ではない。民主党も多くの議員が改正の必要性を認めている。そもそも憲法改正には最終的に国民投票がある以上、議会政治家の役割はそこに提出する改正案を練り上げる事である。もはや耳にする事も少なくなった「選良」という言葉が示す責務を果たすのはこういう時しかなかろう。確かにここしばらくの民主党は硬直的な傾向があるが、与党としては例えばこういうべきであろう。「憲法改正についてはしばらく前から必要であるという事に関して与野党間で広範な合意があり、選挙の争点にする類のものではない。議論を重ねれば議会は適切な合意に至るのではないかと楽観的に考えている」あるいは民主党側としてもいう事は同じだ。年頭の発言の後素早く「憲法改正は国会議員全体の広範な合意によってなされるもので、与野党間に広いコンセンサスが必要だと我々は考えている。選挙の争点にするというのは今までの経緯を考えれば勇み足であろう。我が党としてはいつでも対話に応じるつもりであり、合意案も問題なく出来るのではないかと考えている」という所か。

 参院選での扱いがこじれると事は面倒になる。与野党が政治的妥協に失敗すると、互いに政治的に態度を硬化し、コンセンサスが得られない状況が続く可能性がある。近未来の政治情勢を考えれば、自民党が例え公明党との連立で計算したとしても衆参両院で2/3を達成する事はほぼ不可能であろう。つまり悪くするとこのまま憲法改正がなされない状況がずるずる続くのだ。しかしそれで非が民主党にありと世論の多数派が認識しても、選挙の野党第一党効果から民主党は一定の議席を確保し続け、情勢は動かないであろう。

 もちろんこれはただの危惧であり、民主党内での議論を促すための牽制の一つに過ぎないと解釈する事も可能である。実際は柔軟に対応するのかもしれない。しかし現状では明らかに危険性が潜んでいる。それは自民党にどこまで理解されているのであろうか。
posted by カワセミ at 23:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 国内政治・日本外交

2006年12月12日

安倍内閣雑感など

 体調はかなり戻った。しかし今年はひどい目にあった。声が出ないというのは不便なものだなと実感。一応復活だがブログの更新がマメになるとは限らない(苦笑)

 ここしばらくテレビなどで断片的に報道されている話題に関して軽く感想など書いてみる。現在の安倍政権に関してだが、どうも潮目が良くない。手堅い顔ぶれと思っていたが妙に浮世離れしているのである。

 まず中川幹事長。いくつかの雑誌で報道されている所によると、復党問題は当選している12人については世論の反発も少ないと踏んでこのような形を取ったと言われている。その真偽はともかく、議員を辞めるという事まで条件を付けたというのは異様な話である。言うまでも無くその権利は本人と有権者にしかないのであり、せいぜい自民党から追放するというのが最大限の処罰であろう。これはまともに政権を担える政党が自民党しかないという意識の無意識な反映なのだが、こういう点に自覚的になっておかないと足元を掬われる。復党問題に関しては以前にも書いたが、素直に別の政党として政治活動をすれば良いだけの話だ。その上で連立政権なり閣外協力を考えれば良いだろう。
 この種の世論との乖離はこれまでの自民党の政治も良く出てきた。その本質は、自民党の国会議員が立法府そのものを軽視しているという問題である。党の中でどう地位を得るか、行政府に属することが可能かどうか(つまり大臣等の役職につけるかどうか)という事に一義的な関心があるからだ。これは野党の無力がその大きな原因の一つなのだが、構造上の問題も無視できない。大統領制と違って内閣が法案を提出可能であり、委員会の権威が例えば米国などのそれと比較して低いからだ。これを改革するには、議員の数をかなり減らすしかないと思う。特に参議院に優秀な人材を集めるべきであろう。

 次に久間防衛庁長官。先日も米国向けのミサイルは実質的に迎撃できないという発言をしていたが、今回も小泉政権時のイラク戦争支持は公式見解ではない云々という話をしていた。これらの発言はそれぞれ法理的な原則や実質的な部分を重視した、いわゆる行政官僚の意見に近い。恐らく久間氏は自民党内で各種立法作業における実力は高いと認められていた人物に違いない。にも関わらず、地位と人物の関係は実に微妙である。内閣総理大臣の下、国防に関して首相に準じる最高クラスの権限を持つ人物の発言としてはどうであろうか。理念的な原則を示すのは首相としても、その下で戦略を示す最高責任者が枝葉末節に口を出している印象は否めない。ミサイル防衛に関しても、野党に対して毅然と「日本国憲法の平和主義を、やるべき事をやらずに済ませる言い訳に使うのは憲法を貶める事に他ならない。同盟国の人命を尊重しないそのような意見には、護憲派を自認する政党が真っ先にその道義性を非難するのが自然な事であり、そうでない事には驚きを禁じ得ない」とでもコメントしておけば充分であろう。
 これで思い出したのが、先日竹中氏が閣僚時代のエピソードを語っていた記事である。この「戦略は細部に宿る」という部分は、ただ読むとそうかと聞き流してしまう。が、このエピソードは日本の政治の問題点も如実に示している。ここでは、「大きな戦略のためには細部の積み重ねが重要である」という言い方に抑えなければならない。なぜなら、閣僚がそのレベルに口を出すべきではないからだ。ここでは竹中氏が「1m先へ行け」と示したとしている。しかしそれは本来閣僚の仕事ではない。やはり10Km先の目標を断固として示し、そこに至る経路に関して行政官僚の複数のチームに出来れば各々複数の案を作らせ、それらの案を取捨選択、整理統合し、最終案を決定するべきである。もちろんやや大きなマイルストーンが見込まれる場合には閣僚自ら示しても良いが、それは二次的な問題である。

 最後に安倍首相の曖昧戦略に関して。結論的に言うと、これは恐らく90年代前半までは通用した手法で、現在は無理だと思う。曖昧と報道されている時点で失敗で、柔軟と報道されなければならない。即ち、核になる理念や政策があって、それを実行するための手法は臨機応変に対応しますよ、というメッセージが国民に伝わってなければならない。現時点では出来ていないと思う。コアになる短いメッセージを発して、実力のある閣僚を信頼して任せているとせねばならないだろう。実際、主要な民主主義国で人気のあるリーダーは明確に理念を語っているのである。日本も例外ではないというだけであろう。長々としたスピーチを魅力的に出来るかといえば、それは日本人に少ないタイプなのかもしれないが。

 それにしても小沢民主党は困ったものである。安倍内閣はそれほど良いものとは思えない。個々人の能力は恐らく歴代内閣でも高い部類であろう。しかし、有機的な繋がりをもって行動しているかというとそうは思えない。国民の政治家に対する要求水準が高まっている今はチャンスなのだが、今の野党がそれを生かせそうも無いのは残念だ。なまじ来年の参院選では健闘しそうなのが逆に残念でもあるくらいだ。
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2006年11月08日

日本の核武装問題に関する国内議論への所感

 日本の核武装に関する中川氏や麻生氏の発言が問題になっている。政治やマスコミの現場での取り上げられ方は奇妙でしかないのだが、従来の日本政治が正面から取り上げなかった以上、仕方ないかもしれない。以前にもやや関連する内容を書いたが、つらつらとこの問題への感想を述べてみたい。

 麻生氏と中川氏の発言はかなり計算されている。中川氏は飛ばしているようにも見えるが明確に管理された発言の印象がある。どのような角度から考えても、諸外国への牽制なのであるが、同時に日本国内への負荷テストを兼ねているだろう。そのため麻生氏よりやや身軽と思われる中川氏の発言は、行政府ではなくあくまで一政党の議員の発言として受け止められる。例えば米国などでは立法府側におけるこの種の意見の多様さは元よりいくらでもある話なので問題が無い。実際は日本の議院内閣制においては結構重い内容を含むのだが。その意味では米国の政治の現場を配慮した形跡もある。

 その一方で、これらの発言が意図した最も重要なことは、日本国内の現実離れした右派の幻想を多少なりとも醒ます事ではないだろうか。(日本が潜在的に希望する水準の)核開発はそれほど楽ではない。技術もさりながら、どちらかというと時間、特に多くの実験とそれに伴う犠牲が避けられない。世論がそれに耐えられるだろうか。そして核開発を進めているその初期段階にかなり危険な瞬間を通過しなければならない。米国の支援がある場合を除き、それを乗り切れるとも思えない。

 米国との関係の調整は微妙である。(現在での可能性は少ないが)仮に米国が容認する形で核武装したとしても、それは核の傘は不要で自前でやるというメッセージになるのは多くの問題をはらむ。例えば冷戦期のフランスはどうであったか。核武装国として大きな顔をしているように見えるが、実際の所一貫して米国より妥協的な外交をしていた。西ドイツは戦略的な決定を米国に依存することにより、強硬な姿勢の追認者である事が可能であった。まして現在の日本の立場であれば、短期的な強気の外交は挫折し、中長期的にはむしろ立場は弱くなると推察する事が出来る。もちろん、米国から一線を引いて独自に妥協の余地を発生させるためとなればそれは別だが、日本人にあまりその意図はないであろう。(欧州あたりではこういう文脈で解釈される可能性はある)ただ英国のような米国との協調路線による小規模の保持というのであればまだ主張する意味があるだろう。

 もっとも実際は、北朝鮮の核開発問題が話題になるこの数年間、この核武装路線は積極的に捨てられているのではないかという印象もある。NPTにおける日本の立場はますます明確にされているし、国際会議では今まで以上に反核の姿勢を強調してきた。固体燃料でありICBMにも向くM-Vロケットの開発は終了している。今までH-IIロケットを強く報道していたのは隠蔽の意図もあったのだろう。絶対に発言はしないのだが明らかにオプションを残していたのだから。

 核武装オプションを捨てたかもしれないと推察して、その理由は何だろうか?私は米国内での議論のされ方がやはり大きかったのではないかと思っている。一つに、上記のように日本の核武装はより自立した防衛力の整備と見なされ、米国の関与が減少することを恐れた事。「アジアの事はアジアに任せて、中東に集中しよう」という米国内で根強い方針を懸念したのだろう。もう一つは、核武装を認める論調の中で、日韓に認めるという言い方がかなり多い事である。これはかなりの地域の混乱を招くだろう。第一次・第二次大戦など典型だが、大国そのものは案外抑制的な外交をするが、周辺の中小規模の国家が無理な主張や倒錯した外交をすると火種が大きくなって大戦争になるというのはある話だ。例えばユーゴ紛争のときにセルビアあたりが核武装していたらどうなっていただろうか?

 まぁ、そう思うと今の日本の自民党の首脳部の発言はかなり計算されているとの印象がある。ただ、唯一整合性がないかもしれないと思うのは安倍首相の意見だ。確かに実態が上記のようだとすると「議論は終わった」のかもしれないが、今言うことだろうか?このタイミングにやるべき事は、恐らく非核三原則の三番目、「持ち込ませず」を撤廃することではないだろうか。これは日本が米国の核の傘を引き続き重視していくことを実際に示し、全ての諸外国に安心を与え、(特に欧米の懸念への対処としても有効だ。まともな議論をしている民主主義国に議論の隠蔽は通用しないのだから。何もしないと問題が残存してるとの解釈となる)米国との関係も強くなる。そもそも核の傘を希望しておきながら持ち込みは駄目などと言う今までが身勝手過ぎる主張だったのである。そしてその上で、

「今回の政策は、これまで同様地域の安定を継続するための措置である。核兵器を作らず、持たずというこれまでの方針は、引き続き日本人が継続的な努力をもって推進したい。またその前提であるこれまでのような良好な国際的戦略環境が維持される事を強く望んでいる。この日本の政策に対する、地域の関係諸国の支持と協力を強く希望する。米国からは核の傘が健在であるというはっきりとした言明に代表されるように、大きな協力をしていただいている。他の友好国からも、様々な形で協力していただける事を確信している。」

 とでも言っておけば良かったのではないか。支持すると言質を取った上で、じゃあこれこれこういう協力をと色々話を持ちかければ外交が回るのであろうと。小泉前首相はこの種のイニシアチブの取り方がうまかった気がするが、さて安倍首相はどうであろうか。
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2006年10月24日

郵政民営化造反組の復党問題に思う

 補選に勝利を収めた自民党であるが、早速昨年の郵政民営化造反組の復党を検討する事態になっている。正直うんざりするのだが、この問題に関しての議論は時に奇妙な視点に立つような気もするのでエントリしてみたい。

 自民党はそもそも自由党と民主党の合併によって成立したという経緯もあり、政策的には広範な主張を抱えている。しかし、この政党自体が他の政党に対して接する際にはかなり一線を引いていたという側面がある。それは対(旧)社会党に対するそれが典型だが、ある種の蔑視感情とも取れるアウトサイダーへの対応だ。こういうと語弊があるが、同じ日本人というより外国人に対するようなものでなかったか。まともに踏み込んだ政策論議は少なかった。自民党それ自体が日本社会のそれを反映するようなコンセンサス社会となっていた。もちろん、そうなったのは旧社会党の非が大きい。

 20世紀末から昨年の9.11の衆院総選挙にかけては、それを打破しようという模索が続いた。政策により政党を選び投票するという、本来の政党政治の姿を多くの議員は思い描いていたに違いない。その意味で、その間の政党の離合集散はそれ自体が話題になることは多かったものの、大局的に見れば有権者への提示方法の模索と言う事も出来る。もっとも個々の政局の渦中にいた人々はそんな事を言っている余裕は無かったのだろうが。

 昨年の衆院選挙はどうだったろうか。それは長い民主主義の歴史を持つ国々から見れば非常に原始的な段階で、部分的には歪んだものであったけれども、小泉首相が主導する政治勢力と、守旧的な伝統主義勢力、同じく古色蒼然たるリベラル勢力の並立という、有権者の選択が意味を持つと実感できる形で実施された。これが昨年の衆院選が達成した歴史的意味である。そしてこの政治的選択という側面における今後の進化は、各政党が切磋琢磨する事による、活発で成熟した政党政治に発展することでしか無い。だからこそこの復党問題には潔癖に対処しなければならない。日本人が達成した僅かばかりの進歩を簡単に投げ捨てることになるからだ。

 米国を例に取ってみよう。例えば第一次ブッシュ政権でやや政治的立場が異なると言われたパウエル国務長官であるが、だからといって離党して上院か何かの選挙に出馬し、当選するなり落選するなりした後、共和党に復党することなど考えられるだろうか?それに比べれば日本の場合は政党というより選挙の互助会のようなものだ。そして多くの国民はそれに慣れ過ぎてしまった。これを改善するには何が必要だろう?国民一般の広い支持が政党を支え、一部の利益団体などの意向で政策があまりにその党の本来の位置から大きく動くことが無い安定性が必要なのだろう。

 その観点で今回の復党問題を考えてみたい。個人的には議論の余地すらないと思うのだが、それでも検討するとなれば一定の手順を踏む必要があるだろう。まず、自由民主党という政党にふさわしい政治的な立場を有しているかを、新人議員と同様改めて問う必要があるであろう。そして、特定選挙区だけでなく、もう少し広範な範囲の、国会議員だけでなく一般党員も含めた党としての合意が必要であろう。個人的には、総裁選での地方ブロック程度の範囲が適当ではないかと考えている。都道府県単位では時に視野が狭くなり、全国レベルとなると候補者の評価に細かく目が行き届かないし、地域の代表として世に出てくるという本来の理念から離れすぎると思うからだ。もちろん最終的に党総裁を含む執行部の容認は必要であろう。

 この機会に、こういうプロセスを党員投票で決定するというやり方を制度化してはどうだろうか。一定の年数が経過した後に一定の審査プロセスにより立場が決まるというものである。党の広範な構成員が明確に責任を負っており、そしてその中で最も重い責任を負っているのが執行部であるという原則は確立されなければならない。そして、それが原因となって他党との選挙に勝つのも負けるのもその政党の評価だと構成員が受け止める覚悟が必要である。

 現民主党が今少し国民の信頼を得ていれば、この種の動きは政治力学上自然と発生したかもしれない。このまま旧社会党のようにならない事を心から祈る。悪くすると今年が凋落の潮目だったとなりかねない。
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2006年09月29日

小泉政権の終わりに

 安倍氏が内閣総理大臣に就任し、組閣名簿が発表された。誰もが私と似たようなことを語っているので今更であるが、やはり節目でもあり、小泉政権の終わること自体感慨深いのでエントリしておこうと思う。

 内閣の顔ぶれに関しては、多くの人が述べているように補佐官が重要であろう。大臣は論功行賞とも言え、祭り上げるポストとしては悪くないのかもしれない。何しろいざという時には国務大臣である以上責任が無いとは言えないのだから。ただし外交関連だけは固めてある。これは、当面国内的な基盤作りに傾注するからであるとも解釈可能だろう。麻生氏と久間氏、小池氏に手堅い実務的な外交をやってもらい、国内的な人気を維持しながら安倍カラーを定着させるというところか。
 その意味でむしろ党三役がポイントであると言える。小泉首相は党と対立的であった。そして旧勢力はかなりの程度弱体化した。安倍首相はその大きな資産を受け継いだが、それが長期間続くとは限らず、恐らく今年中くらいに肝となる法案を通すなどの措置が必要だろう。そのための内閣と考えればなかなか良い人選ではないだろうか。松岡農相などには懸念の声もあるが、郵政民営化には最終的に賛成に回るなど、判断力に欠けるというわけでもない。概してこの内閣、政治的立場に意義があっても能力面では高いという人が多くは無いだろうか。ハイスペックで押し切ることが出来れば案外うまくいくかもしれない。

 それにしても小泉氏が首相でないというのは未だにピンと来ない。その一代前が森氏だったのだが、遠い昔の感もある。氏の歴史的評価はどのようになるだろうか?様々な意味で日本の政治史の分水嶺であったように思う。

 かつて田中角栄首相は就任時に高い人気を誇った。その後ロッキード事件で権威は失墜することとなったが、ある程度根強い国内的な人気はあっただろう。しかし今日では、中国のような専制政治の国との談合的外交を始めた政権として、別の側面からの低い評価が発生している。確かにこれはより重要な落度であったといえる。問題を先送りするというのは政治的判断として時に有効な場合もある。しかし問題の所在が隠蔽されてしまう場合はかなりの負債を後世に残す。もっとも中国の場合は、江沢民が反日であったというより、毛沢東が戦略的な決定をし、とう小平(注:文字化けのためひらがな表記)が合理主義的なリアリストであったというだけかもしれない。いずれにせよ、インターネットの発達などによるIT革命により日本の政策は持続可能なものではないという政治的状況はあった。

 ただ背景はそうだとしても、小泉首相の行動はどう解釈すればよいのだろうか。私は、国際的な摩擦を管理可能な範囲にコントロールしたという点で高い評価をしている。別の人物であればもう少し問題を先送りしたであろう。そしてより深刻な形で、いずれ問題は顕在化した。靖国参拝などが代表だが、中国に実質的にダメージを与えるような政策は取っていない事に注目するべきであろう。後半は押したり引いたりしながら距離感を図るという実務的作業に収斂していった。これはどちらかというと社会科学的なアプローチに近い。結果、最近の農産物や化粧品問題に見られるような、ある意味矮小的な摩擦に落とし込むことに成功している。この程度の事で相手方のガス抜きが出来ているとすれば上等もいいところではないだろうか。その業界はともかく、日本経済全体から見れば枝葉末節である。実際に政治家が口にしてはならないことだが。

 この中国との外交などが典型だが、内閣総理大臣に求められる資質で最も肝要なものの一つは、最も重要な問題は何かを提示し、課題として顕在化することであろう。政治的テーマとして設定する事に成功すれば、多くの知恵が自然と集まり、解決に向けて動くということは政治力学上あり得る話だ。郵政民営化などはある種のあぶり出しの道具と言えるかもしれないが、構造改革路線そのものは、直接の経済政策というより企業の自助努力というような課題の設定に重要な所がある。もちろん経済のマクロ政策が重要であったという結論にはなったかもしれない。だが、最終的な評価は、経済政策の枠組の設定がその後の日本の政策決定プロセスにどのような変化を与えたかという点で判断されるであろう。
 そして、この課題設定の見本となるのが北朝鮮問題であろう。率直に言うと、日本人の少なからぬ人々はこの問題を承知していた。ある人は隠蔽し、ある人は大した問題ではないと矮小化していた。特に日本人の政治意識として重要なのは後者だ。ある国の行動で数名程度の日本人の命運が変わったとしても、それでこの国が大きく動くことはないとの諦観を持っていた人は多くは無かったか。だがこれはある意味自然なことでもあった。なぜなら、世界の大半の国ではそれほど高度な安全保障を享受できていないからだ。紛争地域はもちろん、平穏と見える国でも国境地帯で人が死ぬのは茶飯事という所も多い。先進国に分類される平和で安定した国でもテロと無縁でもない。実際、今回の小泉首相ほど頑張る国はそれほど地球上に多くないだろう。多くても20かそこら、それですら、そこそこの大国で無いと何も出来なくなって時間が経つだけかもしれない。アメリカなど例外中の例外の国だろう。その状況下、高い目標を自国に設定したのは歴史の進歩と言える。実際、この種の拉致問題は世界中にあり、例えば旧ユーゴなどでは「日本のように我が政府も毅然と対応してくれれば・・・」という声もあるようだ。この、「日本人を低い基準に慣らさなかった」というのが、この問題における最も大きな功績ではなかったか。もちろん、自らその基準を選んだのは日本の普通の国民であった。自分がそうなると一大事だが、国民一般となるとある程度は仕方ないなどと言い出す、無責任な知識人や官僚ではなくて。

 しかしながら、歴史にifは禁物とはいえ、その発足当初に残念な思いがした記憶はまだ私に残っている。現実に可能不可能という議論があるとしても、やはりこの種のパラダイムの変化は政権交代でなされるべきだったろう。その意味で橋本氏が再度首相になっていて、小泉氏が離党し、民主党右派と連携して政権交代したらどうだったかと夢想することがある。それはたまたま良い人材に恵まれたという幸運ではなく、日本人がより良い未来を自ら選んだという意味で、民主主義の進歩として自信を付けることになったのではないだろうか。結局政治家が何とかしてくれるという意識はある程度残ってしまったかもしれない。もちろん、それは9.11の劇的な選挙である程度の補填がされた。だが政党が切磋琢磨するという余地はまた狭められた。もちろん、それをもって小泉氏を低く評価するのは筋違いだろう。しかし後世の歴史家は、場合によっては日本の民主主義の成熟を遅らせたと言うかもしれないのだ。もう1ループ同じことが半世紀、という可能性だってあるのだから。

 このように書けば嫌でも分かると思うが、民主党の現状は極めて深刻だ。なぜかというと、最近は同党への批判が薄くなっているからである。つまり国民の期待値が劇的に低下しているのだ。もちろん昨年の岡田代表は稚拙であったと言える。だが問題はむしろ敗北後の展開による。前原党首の辞任、小沢氏の前近代的なスタイルなど。選択するためのルールは既に変わったのだ。それでも来年の参院選ではそこそこ健闘するかもしれない。が、仮にそうであったとしても、それはせいぜい反自民の、政権選択ではない選挙の気楽さでしかない。

 特異な人物はたまにしか出てこないから特異なのである。そうでない平凡な人間がそこそこの働きを見せるためには、政党政治が活発な活動を見せる必要がある。議員の知的活動が低下したときに民主主義が怪しくなるのは世界共通である。小泉首相の退任は残念だが、我々にそれを政治的課題として顕在化して見せてくれたのが最後の業績なのかもしれない。もっとも、さすがにこれは贔屓し過ぎであろう。

追伸:文字化けがあるため修正しました。ご指摘有難うございます>finalvent様
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2006年07月01日

最近の日本外交と小泉首相の後継問題に関する覚え書き

 ちょっとバテ気味で更新も滞っている。今回は日本の外交関連で流し読みした色々な記事で、目に止まったものを軽く紹介する。国会が閉幕し、今は外交の季節でもある。

 小泉首相は訪米をメインに外遊中だが、カナダ訪問は比較的重要かもしれない。今回は京都議定書関連の温暖化対策がかなり重要なテーマになっている。日本はこの分野で一応それなりの責任を果たしており、比較的努力を重ねているといえる。しかし世界の大半の国の取り組みは中途半端であるし、しかも議定書を守ってさえ削減は不十分だ。今回のカナダとの対話ではこの付近の雰囲気をうまくまとめた記事がある。(参照1)例えばこの表現は注意深くなされている。

An official close to Koizumi said Japan sees the AP-6 initiative as supplemental to Kyoto, not as a substitute.


 また北朝鮮関連でもカナダに話を通して引き込もうとしている。同様のことはオーストラリアともやっている。またこの小泉首相の訪加は麻生外相のG8外相会談とタイミングを合わせていることにも注意する必要があるだろう。(参照2)ちなみにサミットで北朝鮮の拉致問題を盛り込むことに成功しているようだ。当初ロシアが消極的なことは明確な形で報道されていたのでうまくやったのだろう。

Japan is also hoping Canada will become more active in promoting security in East Asia, and add its voice around the G-8 table next month in Russia to those countries urging North Korea to stand down on its nuclear and ballistic weapons programs.


 個人的な興味があってウォッチしていた日本のデジタルテレビ放送の規格だが、ブラジルにおいて最初の日本以外の国としての採用が伝えられている。(参照3)竹中総務相が訪問しているが、案の定様々なサポートで釣ったようだ。もっとも純技術的にもワンセグなど移動体通信に有利という面もあったようだ。アメリカ方式がなぜかこれに弱く不思議だったが、衛星ラジオ等が極めて強力なせいもあるかもしれない。
 このブラジルとの関係、G4絡みという縁もあるのだが、近年はかなり手厚く行動している。関係はかなり良好なようで、昨年のルーラ大統領の訪日時に発表された共同文書(参照4)も比較的テーマを明確に記述しており、行動自体が活発化している印象がある。エネルギー関連などかなり大きな要素だろう。個人的には西アフリカの情勢も睨んでコミットしているのではないかと推察しているが。

 中東問題への関与も、国内のマスコミには一向に報道されないがいろいろやっている。小泉首相のG8出席前の訪問の計画も報道されている。(参照5)ただし情勢は再び不透明になっている。ハマスはテロ組織ではあるが賢く振舞っているようだ。アルアクサ殉教者団は相変わらず無茶をしているようで、これを機にハマス側に実権を握ってもらったほうがまだマシなように思う。過度に期待するのは禁物であるが。

 ところで人権問題といえば、そもそも内政面が問題になる。小泉首相の政治的ポジションに関しては以前も関連するエントリを書いたが、具体的に人権重視の傾向が現れているのはこういうニュースではないだろうか。(参照6)日本人のドミニカ移民の件、裁判で補償の要求は拒絶されたが何らかの人道的措置を検討しているようだ。今までの歴代自民党政権はこの種の問題に冷淡過ぎたように思う。

"The government must do what it can regardless of the outcome of the lawsuit," Koizumi said.
Fernandez, who plans to visit Japan from Saturday to July 4, has in the past dealt directly with the Japanese emigrant issue. For instance, in 1998, he made the decision to give free land to the emigrants. The Japanese government is optimistic about winning his support.


 言うまでも無いが、世間では後継となる首相の行方に関心が高まっている。これなどはかなり興味深い記事だ。(参照7)やはり小泉首相は様々な意味で例外かもしれない。しかし、日本のように比較的複雑で産業が高度化した社会では、実は意外にコンセンサスは得られない。結果、軋轢を回避するのは先送りにしかならない。つまりこの意見は本質的に正しいのである。しかし後継首相がそれを選択するかどうかは分からない。

 後継の候補として挙げられている人物だが、対イラン政策では小泉氏のように米国に協力するかどうか分からないので当てにするなという論調もある。(参照8)この懸念は確かにあり、後継となる首相が扱いを間違うとかなり危険である。資源の囲い込みをやるというのは、自由貿易で利益を挙げている国にとっては本質的に不利であり自己矛盾なのだが、なぜか推進する人が多い。実際はアラビア石油の二の舞が関の山だろう。市場から調達するとなれば単純にドルを持っていて金払いが確実だと信頼されている国が有利になるのだが。

 靖国神社に関して、安倍氏の動向に懸念する声もある。(参照9)最後の部分はポイントを突いているかもしれない。

But if Abe goes to Yasukuni, the situation will become more serious than in Koizumi's case, Soeya said.
Apart from Yasukuni, Koizumi has tried to improve ties with China.


 以下、具体的な解説が続いている。私も、上記の以前のエントリで述べたように小泉氏は本質的に東京裁判を受け入れており、靖国の件だけを除けばリベラルな人物だと思っている。だからこそ、政策として行く行かないの議論はあれども、オプションとして選択できる余地自体はあるのかもしれない。水面下でも真意は伝わっているのであろうから。
 しかし、確かに安倍氏の口からははっきりとこの種のコメントが発せられていないかもしれない。となると、むしろ靖国参拝のような行動は、少し対応を誤れば一斉に欧米の反発を受けるという可能性もある関係上、選択できないという可能性が高いかもしれない。日本国内では運が悪いみたいな言われ方をされる可能性もあるかもしれないが、もちろん政治的な意味合いはそうではない。後継首相が誰であるかは分からないが、やはりアカデミズムの客観性を押し出したアプローチが、当面はいいのではないだろうか。以前米国が言い出した多国間の歴史研究を、日本が再度自ら言い出してもいいかもしれない。続きを読む
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2006年04月30日

石井菊次郎の対米外交が示唆すること

 小泉首相の訪米が6月に予定されている。その際、米議会での演説を検討してみてはどうかという米識者からの提言があると聞く。民主主義国として中国との違いもアピールできるし、吉田首相以来45年ぶりということで注目も集めるだろう、とのことだ。

 米国での議会演説は格式があり、誰でも容認されるというわけではない以上、こういう機会は積極的に生かすべきであろう。米国人の琴線に触れるスピーチが出来れば良いのだが。

 日本の政治家として、この種のスピーチで評判になった者は少ない。古い話になるが、過去第一次大戦時に石井菊次郎が行ったものがある。石井菊次郎は、第一次大戦への参戦に関してほぼイニシアティブを取った加藤高明と並んで、20世紀前半の日本外交を支えた人物である。陸奥や小村の時代に気迫を示した日本外交は、この時代に一層の成熟を示し一定の到達を示した感がある。しかし今日この両者はそれほど著名という印象は無い。歴史に日露戦争後の記述が少ない戦後教育の偏向によるものかもしれない。であれば、今後再評価されるのは間違いないと思うが。

 石井菊次郎の訪米は1917年である。内容はこのページに概略が示されている。石井はホワイトハウス訪問と議会演説の間にワシントンの墓に詣で、花を捧げている。そしてスピーチを行った。以下の部分は米国的な言い回しだ。ケネディの「ベルリン市民」に遠く通じるような精神のあり方ではないか?

Washington was an American, but America, great as she is, powerful as she is, certain as she is of her splendid destiny, can lay no exclusive claim to this immortal name. Washington is now a citizen of the world; today he belongs to all mankind. And so men come here from the ends of the earth to honor his memory and to reiterate their faith in the principles to which his great life was devoted.


 そして上院の演説だ。内容は上記の同じページの"Viscount Ishii arose and said:"以下の部分が該当する。戦時と言うことで建前となっている部分も確かに多いのであるが、非常に見事なものである。これに関しては別宮氏がサイトで解説ページを設けており、和訳もあるので参照すると良いだろう。当時のドイツが恒常的に無思慮な拡張主義者とみなされていた雰囲気が良く出ている。そして、この演説の後半部分を引用してみたい。和訳部分は直接氏のサイトを参照されたい。

Mr. President and gentlemen, whatever the critic half informed or the. hired slanderer may say against us, in forming your judgment of Japan we ask you only to use those splendid abilities that guide this great nation. The criminal plotter against our good neighborhood takes advantage of the fact that at this time of the world's crisis many things must of necessity remain untold and unrecorded in the daily newspapers; but we are satisfied that we are doing our best. In this tremendous work, as we move together, shoulder to shoulder, to a certain victory, America and Japan must have many things in which the one can help the other. We have much in common and much to do in concert. That is the reason I have been sent and that is the reason you have received me here today.


 繰り返すが、これは1917年のスピーチで、今からおよそ90年前のものだ。にもかかわらず、現在この内容がほぼそのまま通用することに驚く。悪意を持った誹謗に対応しなければならないし、自らの立場を説明しなければいけない。この前の部分のa scrap of paperの言い回しも共通の価値に該当する。法の支配の伝統、自由の価値といった共通の価値観を重視し、肩を揃えて一緒に働く。およそ国と国との友好に必要な条件はいつの時代も変わらないのかもしれない。

 そしてBecauseを語らないと国際社会では不安の目で見られるだけだ。米国は、戦争自体の参加は、特に大戦争になればなるほどいつも立ち上がりが遅いことは示唆的だ。また日本の拉致問題は今回の横田夫妻の訪米でようやく一定の理解を得た。EUの対中武器輸出問題は、ここ数ヶ月でやっと「日米の了解が必要である」とのコメントを引き出すことが出来た。日本人の時計は欧米より早いのが常だと思っておかなくてはいけない。またそういう説明も、ともに働くことでしか相手に届かないのかもしれない。

 日本は、NATOの域外活動との連携を強めると聞く。今度の訪米は当然それも念頭にあるだろう。小泉首相は、米国で何を語るのだろうか。脅威認識は共通であるとしても、何に関して、どのように一緒に働くと言うのだろうか。まさか3兆円出すと言うだけではないと思うが。続きを読む
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2006年03月31日

民主党代表辞任への失望

 今日はとても残念なニュースを耳にすることになった。日本の政党政治の成熟の過程が、相変わらず遅々としたものである事を実感することになった。前原民主党代表が辞任するという。メール問題の責任を取るとの事だ。確かに格好の悪い、稚拙な誤りであっただろう。しかしこれは代表辞任に値するものなのであろうか。

 以前のエントリでも、年金問題での交代に苦言を呈したことがあった。今回言いたいことも全く同じだ。野党第一党の党首は選挙結果次第で内閣総理大臣となる。今回のメール問題は内閣が吹き飛ぶほどの大問題だろうか。国民は批判しつつも多少のことでは揺るがない一徹さ、容易に変化しない存在の重みも静かに求めているのである。

 複雑で高度な社会を運営する現代政治は、大多数の人が賛同するような政策はそれほどない。あるとしたらとっくに解決済みとなっているか、やり残していてこんな課題がまだ残っていたかと発覚したときに時代錯誤的な印象を抱くものであろう。通常は政治的争点になりにくい瑣末な、対立点の発生しにくい常識的な法案一つ通すのにも6割か7割の賛成、それも面倒な話し合いの結果何とか通すというのが現実ではないだろうか。まして政治的争点となっている、本質的な困難さを伴いかつ対立の深刻な課題であればどうであろうか。時間もかかる話であろうし、その間紆余曲折もあり、対立陣営からは枝葉末節の不備を追求される。政治は生身の人の試行錯誤の営みであるから全く失敗が無い政党というのは普通は無い。だからと言って、僅かな瑕疵を理由としてより優れた政策が通らないとすれば、それは長い間の政治の停滞を招くだけだ。80??90年代の日本がまさにそれであったように。

 米国で例えてみよう。例えばイラク戦争だ。これは極論すると2つの選択しか恐らくは無かった。最初から地域の政治的現状を認めるか、民主化の区切りがつくまで貫徹するかだ。中間解は無い。そして議論はあるが、こういう大問題でもブッシュやブレアは続投だった。日本はどうだろうか。私はサマワで不幸にも犠牲者が出ても、首相の進退問題には繋げるべきではないと考える。昔の安保闘争では法案を通すために辞任となったが、いずれにせよ政治家は政治に関する責任を貫徹することが必要だ。ドイツの政治家の「第二次大戦後の重要な安全保障政策の決定はことごとくドイツ世論の反対を押し切るものであった」という述懐をどう考えるべきか。逆説的だがこれこそが民主化の価値でもある。

 責任を貫徹するしないが争点になる形としてはならない。どの方向で貫徹するかを議論としなければならないのだ。単に無能を理由に落とすのであれば、経済面だとしても、10年以上の経済の停滞とか、雇用問題の長期に渡る深刻さであるとか、政治の核心部分への評価で無ければならない。

 民主党の若手には頭のいい人が多い。しかし結果を残すのは行動主義者で、長いプレッシャーに耐えなければならない。今回の辞任劇は責任を取ったのではない。タダの逃避であろう。昔からしばしばある、日本の線の細いエリートの姿の典型だ。今こそ大事なことは別にあると言わなければならない。率直な謝罪は必要にしても。
posted by カワセミ at 20:27| Comment(4) | TrackBack(1) | 国内政治・日本外交

2006年03月26日

東京財団の安全保障研究報告書に関する感想(下)

 最後に5章以下の地域情勢・日本の取り得る方策について記述した部分に触れてみたい。これらの部分は客観的で要点が綺麗にまとめられている印象があり、内容も大半は極めて妥当なものと感じる。私がどうこう言う余地も無いものであるが、軽く感想などを述べてみたい。

・ロシアの政策
 他の国に関しては、政治の論理、客観条件などからある程度力学的に政策を決定せざるを得ない。しかしロシアは、歴史的に見ても指導者層の判断や選択が比較的大きなウェイトを占めつつ路線が決定されている。(肝心な時に間違っている気もするが)プーチン大統領自身の能力は高いのかもしれないが、やや場当たり的で徹底さを欠く印象がある。その意味ではむしろプーチン後の路線がかなり重要だろう。G8追放の検討はマケイン氏あたりが中心となっているようだが、ライス長官の言うように(少なくとも現時点では)誤りだろう。日本も様々にアプローチをかけているが、現在の小泉政権では、領土問題等で何か譲歩をしようにも、それが歴史的に有効な資産となる可能性が少ないと判断しているのではないか。ただWTO加盟の後押しなど、ロシア側としては重要だが日本国内ではあまり話題にならない課題で誘いをかけてはいる。これは適切なアプローチだろう。いずれにせよロシアに関しては相当突っ込んだ分析を別にやらないと戦略的条件としては文章をまとめ切れないかもしれない。

・EUの対中政策
 簡単に言うと、EUは少し前の日本のようなものだと考えれば良い。実際大局的に見れば、〓小平から江沢民、胡錦濤に至る指導者の変遷は開明化と見れないことも無い。欧州は伝統的にアジア政策がうまくないのだが、今回も例外ではない。

・ASEAN政策
 米国や中国との関係も重要であるが、地域のイスラム教徒に対する他宗教勢力の反発がどのような展開を見せるかという国内的要因がある程度各国の政策の拘束要因となると思う。フィリピンのように選択の余地が少ない場合はむしろ分かりやすいが、マレーシアからインドネシアに至る地域はかなり面倒だ。なお米国が中国に譲歩するというのは米国内的には「汚れ役」を任せるという論理となり、強く批判されるだろう。実行したとしても短期間で挫折する政策と思われる。

・日本の戦略
 原則部分では、まず集団安全保障を可能とする事に尽きると思う。その後の協力関係に関しては、現実の政策展開としてはやりやすい国からやるしか無いであろう。最近も麻生外相の欧州への招待などNATOへの関与拡大が話題になっているが、極めて適切であろう。アンザス条約との統合は検討しても良いかもしれない。実質のリソースは日米で負担して、政治的窓口だけ適当な国際機関名にして対応出来ればかなり楽になる。シナリオとしては色々あれど、米国を中心とした民主主義国全体で日本のリスクに対応するというやり方が有効であるという情勢にあまり変化はありそうにない。その中でリスク管理もうまくいくだろう。例えばニューカレドニアを領しているのを大義名分にフランスをアジア太平洋の国際会議の席に付けて普段から言質を取っておく、の類か。

 最後になるが、どのような議論をするにしても、日本人がどの程度の負担をする覚悟があるのかというのが決定的要因になるのは変わらない。その意味でP86に記載されたような厳しい国際環境を想定するような試みはもう少しあっても良いだろう。とはいうものの、広く世の中に参照されるべき文章として、本報告書は有意義な役割を果たしている。ただ日本人の一般国民の多数派は皮膚感覚で政治路線の正しさは見抜いているフシがあるので、実際の意義としては国民意識にあるフラストレーションの解消とか、そういう側面になってくるのかもしれない。その意味でもアメリカ以外の民主主義国との集団的自衛権の話は、進めるということそれ自体に意味があるのだが。
posted by カワセミ at 20:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 国内政治・日本外交

2006年03月24日

東京財団の安全保障研究報告書に関する感想(中)

 前回エントリに続いて、個別内容にコメントしてみたい。

・第2章
 やや伝統主義的な記述に傾きすぎている嫌いはないだろうか。資源に関しては、割合もさりながら絶対消費量と入手性、代替可能性などを考えないとやや一面的ではないか。現状の世界情勢だと支払いの確実な日本は最高の上客で、資源を外交カードにしようという試みは近年の世界で成功例があるのだろうか。河川の上流を管理している国が下流に嫌がらせすると言う程度ではないか。それ以外は最近のロシアのような考え違いとなって終わるだろう。それでも原油や天然ガスは代替可能性が低めの資源だからまだマシなくらいだ。銅線が駄目なら光ファイバー、くらいの規模でマクロ認識をすれば工業国有利の構図はそうは変わらない。貿易が安全であることがほぼ唯一の決定的な要素であろう。
 同様の事は食料に関しても言える。日本は比較的食文化が多様な部類に属する国であるということも勘案しなければいけない。パンとチーズの消費が多い欧州のように米と魚と伝統的な野菜だけなら日本の自給率も高い。農業政策の失敗と言うこともある。その自らの選択の結果を維持するのが国益であるという記述をしておかないと、日本は何やら不利な状況にあるという被害妄想的な意識に流されてしまうのではないか。水資源に関しては、国際河川が国内にないことに言及しているのは誠に適切である。

・第3章
 国益を記述した第3章部分に関しては、より古典的な記述の感がある。まず日本の伝統なるものは、その大半は江戸時代のものであり、それ以前の日本的特質は直接にはあまり反映されていないこと、また明治以降に人為的に設定された古典による部分が多いことに触れておくべきだろう。そして世界的に見れば日本は比較的古来よりの因習から自由であった国だ。幸運にも早期に宗教勢力の専横は排除できたし、科学技術面での受容は常に柔軟であった。「進取の気風」が伝統であるといってもいいかもしれない。また民主主義の価値を国益に明記しておくのは必須であろう。そしてそれを基礎にした未来の選択に関する権利の維持を政治的国益の代表として記述しても良いかもしれない。例えばEUでは工業製品はMade in EUの記述となり、ドイツは抵抗したがそうせざるを得なかった。日本はMade in Asiaはもちろん、例えば米加豪と先進国に限ってMade in Pacificとしても嫌だろう。日本人は孤立主義の伝統があり、他国の顔色を見ながら過ごすのが本当に嫌なのである。その良し悪しはともかく、そういう気風が強く、国民が強く望んでいる事として意識しておいた方が良いであろう。例えば日本人に他国の経済状況を勘案して自国の金利政策を決定する器量があるのだろうか。

・第4章
 外交力に関しては、現状の客観的な能力状況を記述しても良いだろう。つまり、短期的な交渉に関しては不器用であり、外交リソースの少なさもあり(一定の量がなければ質を云々する段階に達しないのは、ここで典型だ。その意味で格闘技ネットワークなどを取り上げたのは聡明な着目と言えるだろう)しばしば稚拙であることも多いが、しかしながら中長期の外交方針に関しては、世界的に見てもかなり優れたほうではないかという事である。これは第二次世界大戦前後の大きな失敗を除けば、明治初期から現在に至るまでほぼ一貫しているだろう。そして時代が下れば今現在国益に貢献している外交官が改めて評価されるであろう。不思議な事に、表面的な発露の仕方は違うが、外国の中では米国が比較的近いことに注目しても良いかもしれない。この件を実感するのには簡単な説明で済まないのでここで詳細は述べないが、私は比較的長い年月でその事を確信するようになった。疑問を抱く読者諸氏も多いと思うが、どこかで頭に入れておいていただくと幸いである。
 また軍事力に関して記述した部分があるが、これは対象を整理して述べるとより実感と説得力が増すかもしれない。私は以前のエントリで安全保障の対象として簡単に分類して述べたことがあるが、いわゆる先進民主主義国に関しては必ずしもツールにならず、米国を中心とする放射状ネットワークの中での価値として再評価されることが何らかの形で記述されると望ましい。例えばフランスはオランダより軍事力で優越しているが、対日外交でそれがどれほどのツールになるかというとかなり怪しい。むしろPKFなどへの貢献といった側面が重要となる。これは報告書中で記述されているが、機能による直接の分類としているのでやや価値が見えにくいかもしれない。「外交」のツールなので、相手による話であるのだから。

 長くなったので続きはまた後日とする。残りはあまり内容がないかもしれないが。
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2006年03月22日

東京財団の安全保障研究報告書に関する感想(上)

 ここを目にしている多くの人はかんべえ氏の溜池通信にも目を通しておられると思う。その最新号にて、東京財団の研究報告書が紹介されていた。的確な内容であるし、インターネット上で全文公開されているのでぜひ読んでみて欲しい。(参照)今回はこの報告書に関して感想を述べてみたいと思う。

 巻頭に示される通り、この報告書は日本の安全保障政策に関しての議論を喚起するもので、専門用語を極力拝した平易かつ丁寧な表現で、政策担当者のみならず広く国民一般に語りかける啓蒙的な色彩が強い。その目的に沿った内容であると思う。以下に記す私の感想は、一部ネガティブな表現があるにせよ、全体としてこの文章が10のうち8か9くらいは適切なものであって残りの部分を強調したものに過ぎないという事は断っておきたい。

 序章にはっきり記載されている通り、現在の安全保障環境をまずゼロベースで考え、過去の経緯に引きずられない客観的な議論が必要であるということには賛成である。しかしながら、そのように断っていても、やはりこれまでの経緯に引きずられている感が否めない。なぜそのように考えたかと言うと、現状を客観視する試みがやや少ないと思ったからである。この報告書、全体として後半の個別政策の提言が優れていると思う。しかし、啓蒙的な役割を広く捉えるなら、特に非専門家の一般国民には、前半は曖昧模糊とした印象を与えるかもしれない。後半の提言に目を留めて貰えないかもしれない。

 現代の安全保障を考えるには、当然のことながら現在の受益状況と損害状況をまず把握することが重要である。特に受益に関しては、日本人は当然視している傾向が強く、これを明示的なものにして意識させる事が重要な議論の出発点ではないかと思う。そしてその水準が高いか低いかに関して世間的な議論はあるであろうが、まずは推測として多数派の日本人が意識的・無意識的に要求する水準とは何かを語ってみてはどうだろうか。

 もう少し具体的に述べよう。歴史的経緯という縦の変化と、諸外国との比較という横の違いを双方意識すべきであろう。縦の変化では、明治や戦前からのコストや状況の比較があると良いだろう。具体的には防衛関係の費用のGNP比の変遷、対外軍事行動による軍人や民間人の被害者の推移、その負担の結果としての国民の安全意識の変化、あるいは対外的な政治的影響力、経済への影響、対外的な市場や資源へのアクセス容易性などだ。そしてこのまま何もせずに推移するとどのような未来図が予測されるか、また現状を維持するにはどのような対策やコストが必要か、さらに良くするにはどうかというような事だ。個人的には、現在の日本の受益水準は充分に高く、維持するだけでも多大な労力を必要とすると考えている。そして現状維持のコストすら嫌う主張をする人が、それ以上の至難さであるより良好な安全保障環境を構築することは出来ないのであろう。非現実的右派勢力への反論と言う意味でもあって良いのではないだろうか。

 もう一つが、安全保障に関する考え方の近い、主要な民主主義国との比較である。同じく経済力に対する負担の水準(直接軍事費・同盟協力費・対外援助費その他)、現在の安全保障状況(例えばイギリスは北アイルランドなどへのテロの被害はあるし、スペインは不法移民が深刻で日本どころの騒ぎではない)、政策設定のための自国の裁量度(恐らく日本は全世界で米国に次いで2番目)対外派兵の人数、国民の安全意識などである。この要件も日本の幸運を自覚する材料になろうし、また本報告書で提言されている集団安全保障に関する理解を深める一助にもなる。主要な友好国の寄与度の仮判定なども付け加えると面白い試みとなるかもしれない。議論を呼ぶ事になりそうだが。
 上記のような前提を元に、自国の持つリソースに関して議論を進めればより実感を持って後半の政策提言に結び付けられるのではないだろうか。

 主要な感想としては以上である。後日のエントリでは個別にコメントしたい部分を取り上げるが、これは枝葉末節となる。
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2006年02月12日

皇室典範改正問題と政界再編

 皇室典範改正問題に関して、小泉首相は有識者会議の結果をベースとした強固な改正派として振舞っていたようだ。どのような思惑かは分からないが、そういうのが無かったとしても小泉首相の政治スタンスから大きく離れたものでは無いので、いつも通り強引なだけかと思っていた。とはいうものの、たまには遊びで小泉首相の思惑を考えてみるのもいいかもしれない。

 昨年の衆院選は様々な意味で例外的な選挙だった。郵政民営化に関して問うたものではあるが、結果としてある程度議員の政治性向を分ける結果となった。ただ思想的なものというより、損得勘定といった力学が先行した感はある。日本でなかなか政権交代が常態化する状況にならないのは、欧米のように政治思想や哲学をベースとする精神的な基盤が少ないからだろう。むしろ実益主義的な行為が先行する。他にも理由は色々ある。立法府の弱体、行政府の過大な優越が大きな原因だろう。とはいっても立法府が活発な活動をすればそこに権威は発生する。

 ここで仮に、小泉首相がもう一段の政界再編を意図しているとしたらどうだろうか。昨年民主党に大連立を持ちかけたところからも、その可能性はありそうだ。それは議員各人が政治的信念によって政党に属さねばならない。利害団体では実効的な活動は出来ないものだ。特に野党の場合はそうと言える。では議員のそのような政治信念をあぶりだす政治的課題は何だろうか?郵政民営化程度では力不足なようだ。

 私は、それこそが皇室典範改正問題ではないかという気がしている。情けないことに、多少の事では自らの政治的信念を曲げて立場の違う政党に属するのが日本の議員だ。皇室を課題にすれば、例えば強固な男系制度擁護派が保守政党で集まるという事も可能だし、中道リベラルが厚い形で(自民党か民主党どちらかは分からない)存在するだろう。欧米のそれとは異なるが、それでもかなりの程度政治的ポジションで政党を分ける結果が望めるかもしれない。逆にこれ以外のテーマで「使えるネタ」がまるで無いというのが日本の現実ではないか。

 現実には、紀子妃殿下の懐妊という慶事が伝えられ、改正問題は先送りとなった。間が悪いこともあるし、そのようなファクターが入ってしまったという事それ自体が、上記のような政界再編に異なる要素を持ち込む結果となるからでは無いだろうか。

 いずれにせよタダの妄想でしかないが、ただ今少し日本人が功利主義的態度を自己抑制しないと、政党政治はこのような強引な方法でしか再編できないという事は事実であろうかと思う。
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2006年01月11日

歴史の議論にかかる時間

 私が継続して購読している日本の雑誌はさほど多くないが、その中の一つに「中央公論」がある。言うまでも無く論壇誌の個別の論説には良し悪しがあり、その責任はそれぞれの著者が負うものではあるが、定期刊行される雑誌には世の議論の知的水準を高水準で確保し、一種の社会インフラとして維持しつづける義務があるだろう。曲がりなりにもそれをそこそこ果たしているという意味で好感を抱いている。
 今回は、2月号に掲載された鳥居民氏の「日米開戦にいたる海軍の不作為」を推薦しておきたい。具体的な内容は同誌を読んでいただく事になるが、簡単に内容の一部を紹介しつつ思うところを述べてみたい。

 まず、日米戦に至る決定的な要素が南部仏印進駐であったことは、以前の関連するエントリでも書いたが、広く知られている事実だ。そこに至るまで、もちろん北部仏印進駐からの問題ではあるが、陸海軍や政治家がどういう論理で動いてきたかが適切にまとめられている。具体的に言うと以下のような事情を述べている。

 ・ドイツから対ソ戦の打診があり、これは資源や工業力を陸軍に
  全て提供する形になるから海軍にとっては悪夢である
 ・そのために南方に陸軍の目を向けさせる必要があり、その方向に陸軍を誘導した。
 ・結果、石油の禁輸となっても対ソ戦よりはマシであると軍令部総長の永野などは
  考えた。
 ・天皇への輔弼責任は逃避、あるいは先送りされていた。
 ・陸軍は満州に兵を集めたが、ノモンハン以来対ソ戦に自信を無くしていた。
  また得る所の無かったシベリア出兵も念頭にあった。そのため世論を前に
  華やかな勝利を得られそうな南方作戦には魅力を感じた。

 その後の結果は歴史の示すところである。また筆者は当時の首脳、木戸や近衛、永野などの思惑に関して様々な推察をしており、そのすべてが間違いないとは言い切れないが、基本的な責任の押し付け合いや回避といった構図は正しいと思う。そして言うまでもないが、ドイツが単独でソ連に勝利する可能性も、黙っていてもシベリアが取れる可能性も充分残っていた。そして筆者はこのように書く。良心の現れだろう。

繰り言になるが、昭和のはじめに、元老がしなければいけなかったことは、内大臣は「常侍輔弼」の責任を持ち、軍事問題すべてにわたっても「輔弼」の責を持つと内大臣官制にはっきり加えることだったのである。


 リーダーシップの欠如が悲劇を生んだのだが、内部的な問題だけではなく、外部から見て実行力のある交渉相手がいないと認識されるのがその源泉だったかもしれない。そしてこの戦争の発生は、一般に思われているよりも短い時間と少ない人間に非が集中している。これは世界の大概の近代戦争でもそうだと思って構わない。

 戦後、日本の左派は戦前の日本の侵略性向を過剰に強調し、特に陸軍悪玉論を中心に喧伝した。右派は米国が日本を敵視し、陥れたとする陰謀論に走った。いずれも自己が信じたくなるような歴史の解釈を恣意的に作ったと批判されても仕方がないだろう。ソ連がノモンハン事件まで北樺太の石油開発権に関して日本と契約をしていた事実もあまり知られていない。(参照)当時の日本がまずは合法利権の確保から始めるべきだったのはいうまでもない。そして上記のようなごく普通の率直な議論すら、マスコミはもちろん論壇にすらあまり登場しなかった。言論の成熟には、かくも時間がかかるのか。自国ですらそうとなると、日本の北東アジア外交は、正確な主張をしつつ半世紀以上の時間を冷静に管理するプレッシャーと同居する覚悟を決めておく必要があるだろう。
posted by カワセミ at 02:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内政治・日本外交

2005年12月10日

自民・民主が大連立したとしたら?

 9.11の選挙で圧勝したにも関わらず、その後小泉首相が民主党の前原代表に大連立の可能性を打診していたというニュースが報じられている。(参照)政治に関心のある者なら誰でも興味深く感じるところで、例えば雪斎殿もエントリしている。私は、このニュースは小泉首相が選挙制度の改革を指示したというニュース(参照2)とセットで考えると分かりやすいと思う。

 この衆議員300、参議院150で重複立候補を無くすというのは、個別の言辞はともかく、明らかに衆議院の単純小選挙区化を目指したものと言えないだろうか。そして参議院は恐らく比例を50程度残し、選挙区を100程度にするのであろう。この前提で近未来の選挙の状況を考えるとどうなるだろうか。

 恐らく衆議院は2つ程度の大政党しか残らないだろう。そして次の選挙前に仮に民主との大連立が成立していたらどうなっただろうか。恐らく民主党の左派勢力は社民党などに吸収されるような形で分裂するだろう。しかしこの政治勢力は小選挙区で勝つような力を持つことは不可能であろう。そして前原代表に代表される民主党右派を抱えた自民党からは保守勢力が分裂し、政界における野党の需要を満たすという筋書きになりはしないだろうか。ただ、この保守勢力はよほど人材に恵まれないとマジョリティを取りきれない。参議院では社民・共産勢力も残るので、参議院では自民党が中道ポジションに大きく存在し、衆議院では右側に野党を抱えた逆55年体制というような趣になるのではないか。もちろん保守勢力の野党が一定の人気を得れば、二大政党化は成立するだろう。

 これはマスコミ対策という面もあるかもしれない。取るに足りぬ支持しか集めない政党でも、衆議院で一政党を抱えていれば特段の扱いとなる。公明・社民・共産は現在破格の扱いだ。これは政治勢力そのものよりマスコミ自体が問題なのだろうが、むしろ自立した力量を備える政党の中を報道する方が重要だろう。政治勢力の変遷はそれを促すかもしれない。

 小泉首相の政治ポジションに関して、以前関連するエントリを書いた。そしてこの小泉首相の中道かつややリベラル色の人権重視、非伝統主義という政治性向を持つ人材は自民党には案外思いつかない。実は前原代表の方が政治的距離が近いだろう。小泉首相は前原氏の個人的資質に関して高く評価する発言もある。全体的に見ても民主党右派が小泉首相の直系という気もする。自分が辞めた後、路線を引き継ぐ人間が欲しいと思っての動きではないだろうか。その意味でも小泉首相は、歴代自民党の首相の中でも例外的な存在なのかもしれない。日本人に自覚の無い状況での仮想的な政権交代と言えるのかもしれない。しかし、それは国民が選挙で選び取るものであるべきだったという思いは残るのだが。
posted by カワセミ at 18:45| Comment(6) | TrackBack(3) | 国内政治・日本外交

2005年12月07日

天皇制の議論で感じたこと

 皇室に男児の出生が近年無いことを受け、女帝を認めるかどうかに関する議論が盛り上がっている。この問題での世間での係争点は、女帝を認めるかどうかではなく、男系を厳格に維持するか、女系も認めるかと言う事のようだ。論理というより感情が先立つ問題でもあるが、これに関する自分の考え方を書いておきたい。

 自分の考えは、日本人の多数派が良しとする方法をそのまま認めるというものである。・・・・・怒らないで欲しい。一応理由らしいものはある。なぜこのような考えに至るかというと、そもそも天皇制というもの自体が、日本人が共通に有している共同幻想としての取り決めであるからだ。これは宗教のそれにも近いが、論理的な理由はそれほど無いのである。ある種の決め事で成立し、長く継続した王朝だからというのが全てだ。伊勢神宮が他の多くの神社より偉いという事をなかなか説明できないのと似たようなものだろうか。とにかく日本人は皇室を神聖だと考えているのである。

 男系論者は非常に真面目なのだと思う。その真面目さ、潔癖さは日本人の特性だが、反面憲法九条の明快な規定すら現実に合わせて柔軟に考えるのもまた日本人の特性だ。左右どちらも極端な人々はどうしようもないが、極端な主張を押さえてマジョリティの支持を確保するのが重要なことで合意はあるようだ。男系論者のY染色体説は何の冗談だと思ったが、さすがに冷静な論者にはたしなめられているようだ。何しろ対抗して女系論者にミトコンドリア説まで出てくるのだから大混乱である。私は不謹慎にも面白がるだけだが。

 ただ一つだけ、苦言を呈したい事がある。日本は外国に学ぶと言うことを苦にしない柔軟さを有している。だからこの問題も欧州の王室と比較してどうかという論が左右どちらにもある。私は、この問題だけは外国のやり方など一切気にしないで決めるべきだと思う。なぜなら、男系維持だろうが、女系も認めることになろうが、日本人が尊重しているからこそ皇室が外国でも重みを持って扱われる事実は変わらないからだ。要は、日本人が腹をくくることだ。「これが我々の皇室、この制度が現代の天皇制である」と毅然としていることだ。外国からは色々な評価があると思うが、「そういうものだ」で済ませれば良い。「そうなのか」で片付く話だ。

 欧州を参考に出来ない事情は、正直口にしにくい真実も混じってはいる。欧州では貴族社会の伝統も残っており、違う国の王室と婚姻関係を結ぶこともある。元々歴史的にも関わりは深いし、共通の基盤を持っているからだ。日本はそうではない。皇太子の結婚相手が見つからないときに民間人からというのは成立した。しかしタイからというのは議論にもならなかった。基準は皇室の神聖さを保つ事だった。大多数の日本人は、近隣のアジアの王室より日本人の民間人の方が神聖さを守れると考えたのだ。この純血主義が、恐らくはこの問題の核だ。日本人の中の最も神聖な部分の抽出がテーマになっている。これは偏狭な排外主義や、空気のような自然な蔑視感と表裏一体なだけに、他国を気にしないで進めるとはいうものの、政治家の発言などに慎重さが求められることだろう。

 その意味で男系論者はポイントを読み違えているかもしれない。万世一系が崩れるのを嫌がるが、テーマは共同幻想の維持だからだ。今まで男系で続いてきたから神聖だといっても、そんな事を知らずに皇室を神聖だと思っている人も充分多い。結果は分からないが、この問題の決着の仕方だけは見える気がする。公然と口に出来ないような、日本人全体を仮想の貴族社会と見なし、その中の毛並みの良い代表者を決めていくというような、巨大なムラ社会の掟に少しのバリエーションを加える暗黙の了解が空気のように形成されるだろう。あまり議論無く、何となく決まるのだ。そして多くの日本人は、心のどこかにひっかかる部分を残しながら、しかし公然とは反対せず、黙々と歴史を紡いでいくのだろう。
posted by カワセミ at 23:49| Comment(11) | TrackBack(2) | 国内政治・日本外交

2005年11月30日

憲法改正における自衛権の議論

 自民党の新憲法草案が海外でも注目を浴びつつあるようだ。この風景はある種明治維新のそれに似ているのかもしれない。世界がその重要さに気付くのに一定の時間を要するという意味で。例外は関わりの深い米国くらいだろうか。
 第九条の第一項をそのまま残したのは無難な選択だ。多くの民主主義国とさして変わるわけでもない。防衛のみを謳う建前はいずこも同じであるからだ。また自国単独での話となればそれで構わない。予防戦争などの積極的行動の場合は、いずれにせよ集団安全保障の問題の議論となり、一国の憲法が扱う範囲を超えるからだ。

 米国の視線はとなると、遠慮も何も無くこんな事を言うワシントンポストの言い分(参照)は本音に近いのだろう。真っ先に連想するのが台湾問題というのは現実とも合っている。

The most likely beneficiary would be Japan's closest ally, the United States, which has urged Japan to adopt such measures. Changes in Japan's constitutional status would have major significance in the region, particularly in the event of a conflict between China and the United States over Taiwan.


 またカナダ・オーストラリアなど、周辺国の見解はなかなか興味深い。いずれも一貫して日本との関係強化を求めている。あまり報じられていないがカナダはゴラン高原やインド洋などで日本と行動を共にしている。オーストラリアは終始積極的なアプローチだ。これは当然で、この付近の国はいずれも対米関係で苦労している。EUなどがある欧州と違って米国と単独で交渉する局面が多いからだ。日本は米国に対して多くの要求を通していると見られており(その代わり資金面での負担は大きいが)共同して自国の交渉を有利にしようという事もある。東南アジア関連で米国が少し引き気味であるというのも苦労するところだ。

 外交は形を変えた戦争という表現があるが、古典的にはそうでも近代、特に20世紀以降は必ずしもそうではなく、信頼を構築するのを基本とする。というのは、社会や産業が複雑化し利害関係が錯綜している現状では、ある程度他国が自国に対して好意的でないと外交の効率が悪すぎるからだ。特に日本のように他国の語学に堪能な人間が少なくリソースが限られている場合は全方位外交となるのは自然でもある。

 ところが安全保障となればそうではなく、これは不信を基盤とし、それへの対処を最小コストで行う事が目標となる。例えばオーストラリアと日本に対するこの文章、率直ではないだろうか。そう、我々はアジアに警戒心を抱いているし、時に不信感を持たれている。自国としては文明的に、許される余裕の範囲で精一杯やっているつもりでもだ。だがそれを破局に至らないように管理するのが安全保障である。集団的自衛はそのコストを下げるための方法ということだ。そして日本の安全保障に関する能力で他国に協力できる長所の部分は何だろうか?それは直接的には経済力を源泉とした優秀な軍備ではあるが、より政治的には、ある戦略の元での行動で、最大限の効率を洗練された方法で達成するという点ではないだろうか。例えば今サマワで地元の人間をうまく抱きこんで相対的安定を得ているが、この手の地道で丁寧な調整だろう。一方戦略立案とその徹底は米国が優れているので、共に行動すると米国の戦略の手伝いをしているだけに見られかねない。この付近は将来の課題なのだが、多くの利害を共有していること自体は事実なので、それを説得力ある形で国内に示すためにも他国を加えた集団的自衛は有効だろう。

 いずれにせよ憲法は原則を書くだけでよく、具体的な方策は別の法案で構わない。そして原則はケロッグ・ブリアン条約の時点と現在でも大差なく、それに対応する方策が日々変わってきているというだけではないだろうか。議論すべきは九条ではなく、その理念を達成する方法だ。全てを憲法という枠に閉じ込めたがる日本の性向自体が問題なのだろう。
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2005年11月01日

内閣改造雑感

 話題性には乏しいが、なかなか興味深い面もある内閣改造だ。少しばかり触れてみたい。小泉首相の改革を競わせるという言は確かに本音のようである。

 官房長官の安部氏だが、これは官邸主導の現在重要なポストではあるが、悪い言い方をすると監視がしやすいという事でもある。失敗したときはひどい事になるが、これが勤まるようなタフさがないと将来の首相になるのは難しいという事だろう。細部に至るまで内外から厳しく評価されると言う意味では、私は米大統領選の予備選のイメージを抱いた。
 中川農水相だが、この人の配置などはなかなか象徴的だ。元々農水族と言えるが、経産相時代にFTA関連をやらせて、その上で農水相にしてお手並み拝見というのはやるなと思う。小泉首相は農政改革も念頭においており、農協などをどうにかするつもりなのかもしれない。
 個人的に興味深く思っているのは竹中総務相だ。これはテレビ局などの既得権益改革の意図があるのではないか。最近の総務省は昔と違って放送局の権益をむしろ嫌悪している傾向がある。細かい話かもしれないが、デジタル放送におけるコピーワンスの見直しとか(正直大歓迎だ)IPによる再送信とか、デジタル放送普及を大義名分にして色々崩しにかかっているという印象がある。竹中総務相で加速させるのかなと思う。

 そして、外相ポストについて述べてみたい。これも特徴的だ。自分の任期終了に近付くに従って党での発言権が強い人物を配置していっているという印象だ。今は官邸主導だが、次政権からは改革された外務省として頑張ってくれないと困る、というところだろうか。
 町村外相が外れたのは非常に惜しい。私は戦後の外相の中でも氏の能力や見識はNo.1かそれに近いと思っていた。小泉首相以上に欧州直系の外交の伝統を有しているように思える。官僚出身の割に外務省的でないなと思っていたら、同窓だったという別宮氏の言によると(過去ログページ、要検索)ドイツ中世史の権威であるという話だ。それはかなり腑に落ちる。ドイツ的な学者肌の政治家と表現できるかもしれない。ところで小泉首相の政治的ポジションは以前のエントリ(参照)で少し書いた事がある。非伝統主義者という側面は、今回の自民党憲法草案でも中曽根氏の保守色の強い前文をあっさり却下している事からしてもあまり外れていないと思う。そして現在の自民党の政治家で町村氏は立場が近いほうだろう。立場が近いからこそ不要と見なされたのかもしれない。立場が近く、自分より優秀かもしれないから嫌ったと言う事はないと思うが、小泉首相に悪意ある人はそう解釈するかもしれない。靖国参拝とかで立場は違うが枝葉末節だろう。歴史認識も近いと思われる。
 麻生氏になると日本の伝統的な保守主義者の色も強くやや毛色が違ってくる。しかし頭の悪い人物ではなく、政局に対する判断力もある。お手並み拝見としか言いようがないが、期待されているのはまさに外務省内部のコントロールだろう。町村氏に弱点があるとしたらそういう部分かもしれない。安保理常任理事国を巡る国連外交などは良い見本だ。町村外相本人の認識は正しくても、変な部下に好きなようにやらせてしまった。その意味での責任はあるだろう。
 小泉首相の「10年、20年、30年・・・」という発言(参考blog)が一部で話題になっているが、中韓とは当面とにかく距離を取るというメッセージでもあり、麻生外相起用はその延長上のメッセージでもある。また対米外交は当面官邸主導での余裕もある。つまり「外務省」でありながら当面は国内改革に専念するという面もあるのではないか。今に限り、それもまた賢明だろう。この一年はかけがえの無い最高のチャンスであるからだ。麻生外相はその時間を生かせるのだろうか。
posted by カワセミ at 20:30| Comment(1) | TrackBack(1) | 国内政治・日本外交