しばらく更新を休んでいたタイミングで、それに加えて一週間ほど寝込んでしまった。今も好調ではなく喉が痛い。今年の風邪は厄介かもしれない。
ここ最近、フィジーにて政府と軍が対立し、クーデターの可能性が報道されている。地理的にやや近く、関わりも深いオーストラリアが自国民避難の準備も進めているようだ。(参照1)これを機会にエントリしておきたい。
フィジーの基本的な情報として、例によって外務省サイトをリンクしておく。(参照2)太平洋島嶼国はいずれも人口の少ない小国が多いが、フィジーは80万人以上の人口があり近隣国との間では相対的に存在感が大きい。しかしながら、歴史的にフィジー系の住民とインド系移民の子孫に当たる住民との間での対立が根深く、しばしば政情不安が伝えられてきた。双方の人口比も比較的接近している。
インド系住民は、英植民地時代に移民させられてきた労働者の子孫である。元々砂糖のプランテーションで働くためであったのだが、これは現在インド系住民の要求を反映する立場にある政党(FLP)が元々社会主義的な政策を打ち出していた事に反映されている。加えて英植民地時代にフィジー系住民の伝統を踏まえて定められた土地制度が問題を複雑化している。参考として、フィジーに関連した日本語で読めるページをいくつかリンクしておく。(参照3,参照4)
昔の日本でもあったようなインド系住民の小作人の立場の弱さというのもあるが、フィジー系住民の間でも土地を所有している者としていない者の対立は根深いようだ。そして近年の経済ではむしろインド系住民のほうが高い経済価値を有する職業に従事している事が多く、純経済的には単純にフィジー系とインド系に分けられる問題でもないようだ。ただ選挙となると必ずしもそうではなく、二大政党がそれぞれの住民から比較的固定的な得票を得ているようだ。(参照5)日本のドブ板選挙ではないが、やはり政治には泥臭い地に足の付いた部分があるのだろうか。確かに世界中どこでも理詰めというわけではない。
現在の状況はワシントン・ポストの記事が簡潔にまとめている。(参照6)クーデター寸前の段階での睨み合いという所だ。国際社会の論調としては当然ながら選挙で選ばれた政府を支持するというものだが、現地ではこの種の強権に対する支持も一定程度ある。英国を元首とする立憲君主制への復帰の願望もまた一部にあるが、それは政治的安定への渇望に他ならないであろう。いわゆるフィジー大統領職のReserve power(参考:参照7)の発動は過去模索されたようだがあまり良い結果をもたらしそうにも無かった。英国の下であれば機能するかもしれないと解釈されているのかもしれない。(余談だが、欧米では日本の象徴天皇はこういうReserve powerも持たない純粋に儀礼的な存在という表現をされる事が多い)基幹産業の一つである砂糖に対するEUの優遇政策も切れるようだ。経済的困窮からもう一段階の政治的不安はあるかもしれない。もっとも金で済むことならばと日本に声がかかるかもしれないが・・・・
その日本ではこの国に関する報道は少ないが、現地からすると最大援助国でもある。最近は国会でも安全保障に関する議論が活発だが、オーストラリアとこういう事態に共同で対処するような事も将来想定される日本の役割の一つであろう。まだそういう事も念頭に置いた議論にはなっていないようだ。オーストラリアも何かと猜疑心を持って反応され、苦労しているのだが、日本も近隣諸国とは似たようなものである。場合によっては外交上助け合う事も可能であろう。過去の日本の南洋諸島統治がもう少し長い期間であったなら太平洋島嶼国に対する日本の関心はもう少し高かったかもしれないが、結果を見れば台湾ですら日本が特別な感情を抱く地域と断言できるほどでもない。(例えば英仏の旧植民地に対する対応と比較すると明らかだ)活発な外交には外交での成功体験が必要なのかもしれない。今の日本はそう外交上の筋が悪いわけでもないのだが、意欲そのものが少ないのは否めない。
2006年12月02日
2005年05月01日
オーストラリアの安全保障と日本
4/25はアンザック・デーである。オーストラリアに取って特別な意味を持つ日だ。今年はイラクのサマワへの派兵に対する答礼という意味もあり、日本からも陸上自衛隊から参加していると聞く。ただこの日を重視する感覚はいささか日本人には分かり辛いかもしれない。
周知のようにオーストラリアはイギリス女王を君主とする。イギリス連邦の絆はこれもなかなか日本人には理解し辛いが、わけてもオーストラリアとイギリスの連帯感は今でも格別なようだ。これは独立の経緯がアメリカのそれと違って平和的であったことにもよるだろう。当初オーストラリアは自治領として独立性を強めてきた。これはカナダが自治領になったことに刺激を受けたものでもある。そしてオーストラリア連邦の成立は1901年1月1日だが、この過程は劇的な歴史を辿ったアメリカやフランスに比べ随分穏やかだ。それ故国民意識としても、独立といってもイギリスの一地方的な日常感覚は継続していただろう。断層のような独立意識は少なく、グラデーションのようにゆっくり変わって来たとでもいえるだろうか。
国民国家の単位は、絶対的な信頼の置ける安全保障の単位でもある。それ故軍事的な行動はしばしば国家意識を高揚させる。オーストラリアにとっては第一次世界大戦のそれが該当する。この戦争にオーストラリアは33万人の兵士を送っている。そして6万人が戦死した。当時の人口が一千万に満たない国がである。犠牲者の数は第二次世界大戦やベトナム戦争を含め、それ以降の全ての軍事行動における合計を上回る。これが社会に与えるインパクトは尋常ではない。この衝撃が国家意識を呼び起こし、言うなればオーストラリアという国家が世界に対して単独で相対しているという感覚が芽生えたのだろう。
この時、日本は日英同盟の関係から、欧州への派兵を求められていた。結局それは実現しなかったわけだが、この経緯は今日しばしば言われるように日本ばかりが利己的でうまくいかなかったわけではない。少なくともアンザック部隊の海上護衛といったことはやっている。また今日すっかり忘れられている向きがあるが、当時の日露協商の関係からロシアに山のように銃を供給している。ちなみに第一次世界大戦に関しては、この別宮氏のサイト(参照)が素晴らしく充実している。氏の考え方に完全に賛同するものではないが、自由主義的な考えの多くに参考になるものがある。
結局この時、オーストラリアはいわば日本の代行者として行動したのではないか。戦後の南洋諸島に関するやや非常識とも言える主張は、その意味で心情として分からなくはない。もちろんウィルソンが批判した露骨な人種差別的言動は非難されるべきではあるが。そしてベトナム戦争の時にもオーストラリアはアメリカの要請に応えて派兵した。この時の国内論調に「日本がいい子でいるためになぜ我々が犠牲にならなければいけないのか」というのがあった。そして今回はサマワへの派兵である。
地理的には日本から中東に至るルートの途上にオーストラリアはある。東南アジアで何かが起こってもオーストラリアの方が地理的に近い。ニュージーランドと日本は少なからずオーストラリアを盾にしてきた面がある。前者は意識的だが、後者は半ば無意識的に。そしてその事に外交上配慮してきた日本人はどれほどいるのだろうか。また集団的自衛権とは、沢山の国を相手にそういう一つ一つの微妙な感情に配慮して進めるものである。その難易度を考えると、日本の外交の順序としてはアメリカとの二国間での同盟をそこそここなせるようになってから多国間の同盟を行う、という手順でしかあり得ないようにも思われる。
周知のようにオーストラリアはイギリス女王を君主とする。イギリス連邦の絆はこれもなかなか日本人には理解し辛いが、わけてもオーストラリアとイギリスの連帯感は今でも格別なようだ。これは独立の経緯がアメリカのそれと違って平和的であったことにもよるだろう。当初オーストラリアは自治領として独立性を強めてきた。これはカナダが自治領になったことに刺激を受けたものでもある。そしてオーストラリア連邦の成立は1901年1月1日だが、この過程は劇的な歴史を辿ったアメリカやフランスに比べ随分穏やかだ。それ故国民意識としても、独立といってもイギリスの一地方的な日常感覚は継続していただろう。断層のような独立意識は少なく、グラデーションのようにゆっくり変わって来たとでもいえるだろうか。
国民国家の単位は、絶対的な信頼の置ける安全保障の単位でもある。それ故軍事的な行動はしばしば国家意識を高揚させる。オーストラリアにとっては第一次世界大戦のそれが該当する。この戦争にオーストラリアは33万人の兵士を送っている。そして6万人が戦死した。当時の人口が一千万に満たない国がである。犠牲者の数は第二次世界大戦やベトナム戦争を含め、それ以降の全ての軍事行動における合計を上回る。これが社会に与えるインパクトは尋常ではない。この衝撃が国家意識を呼び起こし、言うなればオーストラリアという国家が世界に対して単独で相対しているという感覚が芽生えたのだろう。
この時、日本は日英同盟の関係から、欧州への派兵を求められていた。結局それは実現しなかったわけだが、この経緯は今日しばしば言われるように日本ばかりが利己的でうまくいかなかったわけではない。少なくともアンザック部隊の海上護衛といったことはやっている。また今日すっかり忘れられている向きがあるが、当時の日露協商の関係からロシアに山のように銃を供給している。ちなみに第一次世界大戦に関しては、この別宮氏のサイト(参照)が素晴らしく充実している。氏の考え方に完全に賛同するものではないが、自由主義的な考えの多くに参考になるものがある。
結局この時、オーストラリアはいわば日本の代行者として行動したのではないか。戦後の南洋諸島に関するやや非常識とも言える主張は、その意味で心情として分からなくはない。もちろんウィルソンが批判した露骨な人種差別的言動は非難されるべきではあるが。そしてベトナム戦争の時にもオーストラリアはアメリカの要請に応えて派兵した。この時の国内論調に「日本がいい子でいるためになぜ我々が犠牲にならなければいけないのか」というのがあった。そして今回はサマワへの派兵である。
地理的には日本から中東に至るルートの途上にオーストラリアはある。東南アジアで何かが起こってもオーストラリアの方が地理的に近い。ニュージーランドと日本は少なからずオーストラリアを盾にしてきた面がある。前者は意識的だが、後者は半ば無意識的に。そしてその事に外交上配慮してきた日本人はどれほどいるのだろうか。また集団的自衛権とは、沢山の国を相手にそういう一つ一つの微妙な感情に配慮して進めるものである。その難易度を考えると、日本の外交の順序としてはアメリカとの二国間での同盟をそこそここなせるようになってから多国間の同盟を行う、という手順でしかあり得ないようにも思われる。