2005年05月11日

対中外交の難しさと靖国参拝問題(2)

 中国との外交上の軋轢に関しては、様々な人が論じている。今回溜池通信のかんべえ氏が靖国参拝に関してこのような事を書かれていた。(5/10のDialy参照)氏の意見には常々共感するところが多く、反論したくなることは皆無に近いのだが、今回は珍しくがっかりした。このテーマについては前回のエントリでも似たような事を書いたが、もう一度記述しておきたいと思う。

 まず、靖国神社に関して私の考えを書いておきたい。この神社が日本の宗教的伝統を示しているというのには反対である。明治以降、人為的に整備された側面が強い。日光東照宮を考えてみれば分かりやすいかもしれない。これは江戸時代特別な神社だったが、今日はそうではない。伊勢神宮、熱田神社となれば日本古来の伝統といって良いだろう。それらに比較すると近世の人為的要素があり、若干の違和感が日本人にあるのではないだろうか。そして靖国神社はそれ以上に近代人の手になるものだ。 また政府がこの神社を特別扱いするというのであれば、特別扱いするその代償として、ある種の社会的責任による一定程度の拘束が発生することはおかしい話ではない。ただそのための個別のリアクション、例えば分祀強制となるとこれは問題があるかもしれないが。そして一宗教法人と割り切って他の有名な神社と同様に扱うのであれば、わざわざ特別扱いする行為自体が不適切とも思える。もちろん日本人の一人として自分は特別扱いする、というのであればそれは個人の自由ではある。

 そしてA級戦犯だが、これは政治的解決の一つだということを再度強調しておきたい。世界中であれだけの犠牲者を出した第二次世界大戦において、何ら責任が問われず終わるというのは現実問題として政治的に有り得ない。連合国だけでなく、実際に惨禍をこうむった当時の日本人からしてそうだ。そして日露戦争、第一次世界大戦の経験で、大規模な戦争となれば犠牲者が膨大になるのは事の最初から分かっている話である。軍人は勝とうと作戦を立てる。相手に多くの被害を与えるためにベストの方法を考える。それは仕事だからいい。しかしそれを実行に移そうと政治家が決断するとなると、それは重い責任がある。例えその時にたまたま首相、内閣の一員といった地位にあるだけだとしても、一定の権限があるなら止める義務がある。止める力量がなければその地位にいてはならない。高い地位にあり、権限を持つ者は必ず結果責任を問われるし、問わなければならない。国民感情から無理だったという人がいる。では日清戦争後の三国干渉で、仏独露に抗して戦争するのは仕方ないのか。その時の政治家は国民を説得し、責任を果たしたのである。少なくとも違う考えの人を社会的に排斥しようとしていたら、責任がないなどとは絶対に言えない。石井菊次郎のような人物もまだ存命していたのだ。

 加えて東京裁判の性質がある。中国と太平洋、実際は異なる戦争を戦っていた。旧海軍は賢いのか、死刑を出さずに切り抜けた。たまたま東条首相だったからというのもあるが、両方の戦争をあたかもセットであるかのようにして、時間的に早くから始まった事もあり旧陸軍に全部押し付けたという側面がある。確かにナチスとは違うが、真珠湾以降は第一次大戦時のドイツ的な暴走ではあったろう。ある意味ではセルビア的な途上国風の暴走と言えなくも無い。自国の規模を過小に見積もるのは日本人の悪い癖ではある。この付近を見直すという話になると再度責任問題の再評価になるというのがこの件が動かせない原因の一つでもある。昭和天皇は中国大陸での戦火拡大に一貫して反対であったようだから個別責任を問わないというのは筋として通る。ただ政治家に関しては、海軍の暴走としてもそれを止めなかった責任は残る。

 そして日中間での水面下の紳士協定の話、げっそりした。その手の外交をやって死屍累々というのが日本の歴史ではないのか。純経済的な利権ならともかく、この種の外交案件を専制政治家との談合で処理するとろくなことが無い。20年周期で再発すること必至である。中国の将来は未知数だが、近未来においては短期的に混乱が発生する可能性があるとしても、一定の存在感を持って国際社会に相対すると考えるべきだろう。その際は極力民主主義のルールに近い外交的振る舞いをしてもらわなければいけない。最低限度表面を取り繕ってくれないと困る。相手に引きずられず、むしろ極力文明的なルールに引き寄せなければいけない。そのためには公式に残る外交上の決着が不可欠ななのである。対中国の問題は極力多国間の枠組みの中で、表で解決することが何より大切であろう。
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2005年05月06日

米韓同盟の行方

 米韓同盟が危機に瀕していると言われる。確かにその通りだろう。米国の政治家は韓国に不快感を隠そうとしない。しかしすぐに崩壊すると考えるのも的外れだろう。一部予想も含める形になるが、私の考えを記しておく。
 米国は世界中に様々な同盟国を抱えており、重要度も関与の度合いも様々である。その中で韓国は比較的大規模な軍を駐留させており、深く関与しているといえる。朝鮮戦争のいきさつもあるが、近年を除けば地域の安定に資する所大であったろう。それは米国の世界戦略の一環としてのものではあるが、大前提として韓国自身が望んだものであるという事実を忘れてはならない。
 世界に民主主義を名乗る国は多数あるが、その成熟度、政治的水準は様々である。自由選挙で選ばれても専制政治の独裁者もどきになっている国もある。では何を指標と考えると良いか?これは議会の権威という事に尽きる。議会に良質な議員が多く、知的かつ創造的に活動を行い、その決定に重みがある国が民主主義の成熟度が高いと言える。王制が残るイギリスも民主主義国の代表格であるのは強力な議会がその大きな理由である。立憲君主制で一向に構わないのだ。多くの欧州諸国、米国も議会の権威は重い。余談だが欧州でEUが民主主義の敵扱いされることがあるのは、この議会の発言権がEU官僚に奪われるからだということでもある。

 また全ての国の外交が、自国の国内的価値観から出発するが、当然米国も例外ではあり得ない。米国は相手国の議会の決定がその国の「公式な意思」と考える。民主主義国は常に国内の意見が多様であるが、日本のようなやや特殊なコンセンサス社会を持つ国でもない限り、システムとして決定を出す議会の公式な決定が極めて重要なのである。(その意味で、相手国の議会を重視しない80年代の日本は確かに民主主義国として未熟であったし、近年はかなり成熟してきたとは言える)この基準は様々な局面で適用される。1991年にフィリピンから米国が撤退した際はフィリピン上院の決定を受けてのことだし、イラク戦争でトルコが陸軍の国内通過を認めなかった際も、米国は非常に反発したが、議会の決定であるから結局は尊重したのである。蛇足だが付け加えると、ここで米国の国防総省筋や軍関係者の個別の発言が色々とあっても過大に評価すべきでない。これは政治の問題で、両国の政治家の「公式の発言」こそが重みを持つのである。
 そして韓国の場合はどうであろうか?確かに問題が無いわけではない。というより山のようにある。しかし韓国議会が米韓同盟の破棄を「公式に議決して要求」するだろうか?むしろ抑止力の維持を求めるだろう。そして米国はこのような身勝手な同盟国を世界中に抱えており、これで破棄ならサウジやパキスタンなどとっくに破綻しているとも言える。日本と米国の関係に至っては多少の摩擦はあっても最も安定している部類だろう。
 それに米国の国内政治での位置付けはどうだろうか?やや乱暴だが分かりやすい比喩を用いると日本は優秀な学生の国で米国は優秀な教師、少なくともそうあろうとする国である。学生が自分より成績の劣る別の学生に冷淡であるのは当然だが、教師としては自分の指導力不足ではないかという懐疑が付きまとう。そして自由の拡大を標榜する現在の米国では、例え同盟相手国にかなりの非があったとしても、同盟の破綻は大きな政治的失敗の一つとして認識されるのではないだろうか。義務を積極的に果たしていないくらいでは弱く、深刻な裏切りが無い限り米韓同盟は継続するだろう。
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2005年04月17日

中国の反日デモに思うこと(2)

 反日デモの報道は相変わらず扱いが大きい。自分としてはだからどうした、であるが、この感覚が特殊なのだろうか。前回でのエントリでも書いたがもうちょっと独り言を呟いて見る。
 しばしば拝見しているこちらのブログで「幕があがった」という表現をされている。それ自体はなかなか的確な表現とも思えるが、何か歴史の節目的な??近年だと例えば東欧の民主化ドミノなどがそうであろうか??重大な事が持ち上がったと言っている印象を受ける。確かに上海という時点で私もやや意外とは思った。しかしこれとても外部からの人間が主力をなしたようではある。そして自分としては、これで中国の経済が海外からの投資減などの影響で不調となればそれは中国にとって大変な事であろうが、日本にとってはそれほどどうという事も無い話ではないだろうか。もちろん短期的には、例えば邦人に危害が加えられたりすればそれは怪しからん事ではあるし、ニュースとしてもインパクトを持って伝えられるであろう。しかし、例えばこれが中東やアフリカで発生して日本人の安全や資産に問題が発生したとなれば、日本人はどう反応するのであろうか。恐らく「そんな危険な場所になぜろくに調査もせず出て行った」として当該企業や政府の対応の未熟さを非難する声が主流となるのではないだろうか。そしてそれは、恐らく日本人の持つ対外意識や安全保障に関する自然な反応なのであろう。
 「同じアジアとして恥ずかしい」的反応もあるようだ。これもまた良く分からない。セルビアが妙な事をやらかしたとしてフランス人が「同じヨーロッパ人として恥ずかしい」と言うと日本人は違和感を感じないのだろうか。もっともイギリスは「セルビアの山猿・・・」みたいな表現をした伊藤博文に「それでもヨーロッパには違いない」と答えたらしい。それで伊藤が日英同盟より日露同盟に傾いたかどうかは知る由も無いが。近年のユーゴ紛争もヨーロッパでの人道問題だから許さないという論理だったようだ。いずれにせよ国民国家というものの単位を考えると、この付近の基準の取り方は日欧ともに妙ではある。特に日本の場合はもっと徹底した割り切りが必要であろう。
 思うに、中国が未来の超大国的な予想をしていた人が結構騒いでいるのではないだろうか。中国経済の外資主導の実態を見ると未来永劫日本を抜くことなど無さそうに思えるのだが。そして今回、日本の大企業で中国に投資をしていた所に影響が大きく、広告などで報道にも繋がりが深いから国内報道が大きくなった面もあるのではないだろうか。構図としては、例えば国内の個別企業の盛衰に一喜一憂する知識人やエリート層と、そんな事もあるだろうと冷めている一般庶民との認識の落差がそれに近いようにも思う。それとも私の今回のデモへの反応は冷淡に過ぎるのだろうか。
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2005年04月13日

対中外交の難しさと靖国参拝問題

 昨今、対中外交がますます厳しくなっている。靖国参拝問題も相変わらずだが、これらの件に関する自分のスタンスを書いておきたい。恐らく批判も強いと思うが、自分自身、現時点での見解を示しておきたいというのもある。

 まず、当たり前の事であるが、相手がこういうからこうする、という場当たり的な対応が全ての元凶である。ある一定の倫理性を持ち、首尾一貫して全ての国に毅然と同じ主張をするのが大前提である。この件で日本はいくつかの失敗をしている。
 日中国交回復から平和友好条約締結に至る過程では、対中の戦後決着のさせ方として、「悪い軍国主義の政治家により日本国民も中国国民を等しく被害を受けた」という建前とした。そして一部を除き当時の政治家にとってこの論が現実と乖離があることは百も承知であった。実際にはナショナリズムの高揚という意味で、日本自身に関しては欧州で言えば第一次世界大戦かそれ以前の状況に近い。そして欧米に関しても、こと対中関係に対しては実質途上国相手の軍事行動の延長であったことを説明しきってはいない。(もっとも無分別な軍事行動の拡大に問題がありすぎたのは言うまでも無い)そして現実と乖離がある以上、政治家が交代すればこの論理が継続できないのは当たり前である。そのうち仕切り直しておくべきであろう。

 中国に関して言えば、これも当然だが自国民を殺害するほうが他国民を殺害するより罪深いことと思う。この付近、中国の国内統治の論理ではしばしばある種の倒錯を起こす。これに対する日本の態度はどうしようもないくらい惰弱であった故に、現在主張し辛いほどの状況である。そして歴史の責任は当然だが現在により近い出来事のほうが重みを持つ。いずれの点からしても、大躍進政策や文化大革命の事実が日本との戦争より批判されて然るべきである。

 日本に関して言えば、靖国参拝に関してはあまり他国の顔色を見て行く行かないを決めるべきではない。自身の倫理観のみで決定するべきであろう。世間での認識としては、ナショナリズムの高揚の責任をA級戦犯にだけ負わせたという後ろめたさからの甘さがあると思うが、これには強く異論を唱えておきたい。失政によって山のような自国民の死者が出た結果に、何ら責任が問われずして良いわけが無い。国家の指導者にとっては無能であること自体が罪である。能力が無ければそもそもその地位に就くべきでない。事は東京裁判でも同様で、これは大まかに言えば旧海軍勢力と米国の談合による当時必要とされたある種の政治的決着の一形態と捉えるべきであろう。この裁判自体の問題を指摘することは極めて容易である。ただそれが政治の論理として当時も今も今ひとつ機能しないのは、それではどういう政治的解があったかということに関して代替案が提案されていないからである。これはあらゆる政治問題に関して今も同じような構図で継続している。日本人自身が素早くリアクションを起こさないと、事態を進めている他者の意見が通るだけの話である。世の中の大半の問題に、何もしないという選択肢は存在しないのだ。

 そして靖国参拝に関しては、個々人に関する立場と政治家に関する立場を分けておくべきであろう。個々人に関しては古典的な神道の認識でも、あるいは国家神道の認識だとしてもそれぞれ自由な立場で参拝して構わない。この事に異論はあまり無いだろう。政治家に関しては、参拝自体が前記の自国の政治家に関する政治的な甘さを想起させるものがあり、今の時点では賛成できない。一般犯罪なら死刑になった凶悪犯でも死刑で罪は消えたとして、普通の故人と同じように敬意を払われて構わない。しかし事政治家に関しては、その負った責任の重さ故に、厳しく断罪されつづけることも仕事の一つと考える。自身が死んだくらいで罪が消えたとするには、影響範囲があまりに広すぎるのだ。ちなみに欧米だと軍関係者には東京裁判や靖国参拝問題への同情心が強く、政治家筋では冷淡なようであるが、これは彼らの倫理観からすると自然なことと理解できる。
 なお、個々の戦犯に関しては、それが不当なものであれば適宜名誉回復をすることには賛成したい。ただしその際には、罪がありながらそれを逃れたような者に関しては、本人が故人であっても責任を明確にしておくべきと考える。要は日本自身がある種の倫理性を持って首尾一貫するべきということに尽きる。
 私は無宗教の参拝施設も悪いものと思わない。ただ歴史や権威が必要なものであるので、なかなかこれといった物を成立させ難いのであろう。しかし適切なものがあったとしたら、かつて嫌というほど殺し合い、今は友好国となっているG7諸国の首脳とサミットで参拝して欲しい。アーリントンよりはニューファウンドランドのイメージであろうか。そしてすぐには無理であろうが、中国や韓国の政治家にも来て欲しい。未来志向とはそういうものではないかと思うのだが、現在の状況を思うとそれは遠い道である。
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2005年04月10日

中国の反日デモに思うことと日本の二重保険戦略

 連日、北京や上海での反日デモが報道されている。日本のメディアではセンセーショナルな扱いをしているが、私は少々違和感を覚えている。

 マスコミが外国に関して報道するときは、そもそもその国の政治体制や経済水準など、総合的に考えて常識の線というものを設定し、読者・視聴者と暗黙の了解を取っているのが普通である。だからアメリカに関しては点が辛くなるし、欧州諸国ではある程度の政治的水準を当然視する。多くの途上国では治安問題が起きてもさして問題にしない。日本はちと偏ったスタンスを持っている気がするが、どの国もそれなりに偏っているのでそれは止む無しという側面もある。

 ここで中国に関して考えると、日本のみならず世界各国とも報道姿勢が一定せずにブレがある。つまり、報道する事件によって基準の取り方が変化する。これはしばしば外交政策にも悪影響を与える。「欧州大陸とアフリカ大陸が一緒になって一つの国を作った」と表現するのも乱暴な例えだが、そのくらいに思っていて良い。これは各国で経済関連の政治家と安全保障関連の政治家の対立となって現れる事が多い。そしてそのバランスは国によって違い、例えばそれはEUの武器輸出解禁問題での日米とEUの対立のような形で現出する。この種の摩擦はこれからも頻繁に発生すると思って間違いない。EU諸国の無責任さは否定できないが、構造的に発生するようになっていると認識しておくべきだろう。歴史的に外交巧者と呼ばれる欧州諸国も対中外交となるとさして成功していないのはこの付近が原因でもある。現在の状況は今に始まったことではない。

 今回の反日デモ、例えばフランスの旧植民地などは典型であるが、絶対的にはこの種の旧宗主国もしくはそれに類似する国への反発はさして珍しいものでもない。もちろん現在の中国をG7に準ずるような経済パートナーと考えると勘弁してくれとなるが、せいぜい南米のやや経済規模の大きい国程度に考えると、経済活動上あり得るリスクの一つでしかない。そして事この問題に関してはそう捉えるのが自然であろうと思われる。リスクに応じて投資を控えるなり何なりするだけの話であろう。アジア主義者にしばしば見られるが、元々の期待水準が妙に高すぎると却って混乱するだけではないか。典型は戦前のそれである。
 その意味で今回町村外相がこういう事を言っているが、本人の明晰さとは別に日本外交の悪癖が出た不適切な言動と言える。これは専制政治国家との談合でしか成立しない要請であり、日本自身にとって良くない事である。言うとすれば、民主主義国に求めるのと同じように対応し、説明責任を果たすしかない。他の民主主義国と同じような対応をしてくれることを内心期待しながら、専制国家と同じような取引を持ちかける事に本質的な矛盾がある。最低限度要請は裏でやり、公式声明は別にすべきである。日本自身の外交態度がふらつき過ぎているのである。

 さて、欧米から日本の外交を見たときに、こういう言いまわしに見られるように「安全保障と経済のパートナーをそれぞれ別に選んでいる」と見られることが多い。ここでは「二重保険戦略」と呼ばれており、日本の政界ではこの戦略に関して広範な合意があるとされている。日本人としてはわざわざ特別に言及されることに違和感を覚えるほどであろうが、これは北米や欧州が地域での双方のパートナーを一致させて行動していることから、彼らの視点から見れば特異に、そして抜け目無く振舞っているように見えるということである。これに関してはBecauseの説明が伝統的に足りなくはあるが日本の置かれた条件上自然ではある。
 ただこの戦略は、一定以上深刻な安全保障上の問題を他国にアウトソーシングしないと成立しない。中国の経済力の伸長に従って欧州も日本の伝統的な立場に接近していると見ることも出来るが、この点も見事に一致してきているのは偶然ではない。しかし日本は安全保障問題で前面に立ちつつある。それはこの二重保険戦略が、グローバルな視点では中東諸国に対しても成立しなくなるであろうという未来をも示唆している。続きを読む
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2005年04月06日

対北朝鮮経済制裁論の行く末

 北朝鮮に経済制裁を行えとの議論が盛んである。しかしながら、合理主義的な保守派からはこれに慎重であるべきとの論が強く、一定の合意を見ているようでもある。私もそれに賛成である。
 実のところ議論としては極めて明快なのである。過去に米国といえどもも単独で経済制裁を行った場合は今ひとつうまくいっていないという事実と、日本の経済制裁が他国によって補填されてしまえば意味が無いという当然の事実による。後者に関しては、明快であるにもかかわらずマスコミでの議論は敢えて避けられているという情勢だろうか。現在主流となりつつある安保理決議を待つべきだという見解が正しかろう。
 外交上懸念されるのは、中国というよりむしろ韓国の側である。日本が経済制裁した場合、北朝鮮の政権の特性を考えるに、民衆の生活をある程度犠牲にする形で当座の補填をするであろう。そして「日本のせいでこのように民衆が困っている」と吹聴し、韓国が「同じ民族の困窮を救え」と山のような物資を北に送る、というような筋書きであろうか。それを止める手立ては当面無いし、その局面を生み出さないよう日米共同で外交的に対処しておく必要があると思われる。安部幹事長などは単独制裁辞さずの議論をしているが、恐らく小泉首相と連携した世論のガス抜きではなかろうか。客観条件だけ見れば、上記のような感触を政府の当事者は皆良く知っているのである。
 なお、北朝鮮の核開発問題に関して、それが体制の維持と直結しているだけに、外交的解決は困難であると私は予想している。拉致問題も同様である。この予想はぜひ外れて欲しいものだ。
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2005年04月02日

韓国政治の漂流

 韓国の政治が不安定さを増している。近年特に米国で問題視されているのはこの発言だ。このように「どっちの味方になるか分からない」と宣言するのは昨今の対米外交としては致命的な失敗であると思う。下手をするとこれが致命傷になる可能性がある。
 これは韓国の立場を考えると、このような考え方に傾斜するのは無理もない。周辺に大国が多くて、純粋に自国の影響力だけなら低いという場合、「キャスティングボードを握る」という戦略は世界的に見てもしばしば存在する。ただ言うまでもないが危険であり、過去のポーランドやタイ、その他の経緯を見ても相当の外交手腕を必要とするのは言うまでもない。。

 以前Finalventさんのエントリでなかなかうまい書き方をされていたが、韓国政治の漂流は、基本的に盧武鉉大統領が選出されたからというよりウリ党が第一党になったことにある。非常識な主張をする政党が議会で第一党になるとロクなことが起きないという政治の現実は世界の近代史に赤裸々に刻み込まれている。韓国の状況を安保騒動の頃の日本に例えている人がいるが、本質的な部分で全く違う。当時の日本は知識人がマルクス主義一色であったにも関わらず、サイレントマジョリティの選択は継続的に確実なものであり続けていたのだ。これも私が日本の民主主義が稚拙な伝統に支えられているものでないと主張する根拠の一つであるが。さすがに日本よりは骨があると言えるフランスだって結構ふらふらしていたのだ。

 米国の安全保障に対する外交行動は、9.11以降、いくつか大きな変化を示している。その一つが不確実性の脅威に対応するために確実な部分を増大させることに注力することであり、それに高い価値を置いているという事がある。これをブッシュ政権のみの特性のように報じているメディアがあるが、そうした側面も無いわけではないが本質的に誤りといえる。そうであるから、イラク戦争においてブレア首相はもちろん小泉首相、ハワード首相のように首脳が終始明確さを旨として対応した国が米国とうまくいっているのである。兵力の問題は当初から米国が大半負担すると覚悟が決まっているだけに(まして担当地域の危険度まで勘案すれば米国が100%近いかもしれない)当初からあまり気にしてもいなかったのである。日本より多くの兵力を送ったのになぜと国内で議論されている韓国の状況は問題であるが、ただここらの認識を間違っている国は他にも多い。続きを読む
posted by カワセミ at 23:42| Comment(6) | TrackBack(0) | 北東・東南アジア