2005年05月25日

米ブッシュ政権の安全保障戦略

 イラク戦争などにおける混乱で、ブッシュ政権の安全保障戦略が議論となって久しい。少し旧聞になるが、私が他のブログのコメント等でも取り上げた文書も紹介しつつ、考えを述べておきたい。
 ブッシュ政権の先制攻撃ドクトリンは、例えばジョゼフ・ナイ氏のように批判する人もいるが(参照、英文は全文公開されておりこちら)保守派筋の安全保障戦略の専門家は高く評価することが多い。例えばこのような論が代表だろう。(参照、同様に英文はこちら) 両者の意見に共通するのは、非国家アクターが大量破壊兵器を入手することにより、今まで国家しか成し得なかった大規模な破壊を行うことが可能となった点だろう。この点に関して異論は無く、米国内での議論の中心は、いかに兵器を管理状態に置くかという事にある。このため最大の問題は破綻国家であり、彼らの観点からすると現在の北朝鮮や中国は曲がりなりにも抑止が働いており、むしろ短期的には目標とすべきモデルと見なされている点だ。北朝鮮に送ったメッセージとして、核流出がレッド・ラインというのはそのままの意味であり、世界的な文脈で解釈すべきだろう。
 私は全般としてギャディス氏の意見に分があるように思う。確かに先制攻撃と予防戦争の違いは微妙になりつつある。アフリカでのフランスの行動など、抑止が働かない地域に関しては実際の軍事行動に及ぶことがあるのは世界的な現象だ。最近としても、中南米におけるアメリカの行動は予防戦争の色合いが濃いものだ。ちなみにかつて欧州と米国で、アフリカと中南米の勢力圏を分け合って以来、中南米に関しては欧州は冷淡なものだった。だからアメリカを強引だと思いつつも、イラクの時だけ文句を言うのかという反発が中南米諸国にはある。The Economistの「フランスが戦争の正当性を決定すると主張するのは愚かでしかない」という批判もその付近を踏まえた発言ではないか。またラムズフェルドの「古いヨーロッパ」発言もそうだろう。そして自国からの距離は問題にならなくなりつつあるという世界の現実が波及してきただけではないか。また抑止が可能でない地域に関しては確かに19世紀的な手法を取らざるを得ないことがある。もちろん外交的な手段の後にだとしても。

 そして中東に関しては言論空間の異常さがある。日本でもアラブ研究家の池内氏の著作などを読めば参考になるが、陰謀論があたかも事実として当然視されている。9.11はイスラエルが黒幕だというような意見が事実のように扱われたりする。日本も近隣国の恣意的な歴史・政治の解釈で苦労しているが、あれがひどくなり、対話そのものも成立せず、暴力だけが先行すると思えばいい。米国から見ればアジアの風景は不安定であっても随分穏やかに見えるだろう。中国の反日デモには米国からの非難もあったが、例えばワシントンポストの「民主主義国では議論によって歴史が真実に近付くこともあるが、専制政治では歴史は道具に過ぎない」という批判は、中東のそれを踏まえて発言しているのではないだろうか。領事館の襲撃はさしずめ昔のイランの米国大使館占拠事件を連想したかもしれない。

 理性的な言論空間、民主的で開明的な政府により、民衆の不満は緩和され穏健化する。長期で見れば暴力を減らす唯一の道であり、短期で見ても少なくとも抑止が成立するくらいの理性を育むことは可能になる。これが現代における民主化の意義であり、9.11テロは自国の専制的な政府を打倒できないテロリストが「ソフト・ターゲット」として米国を選択した現実もある。米国は確かにやや焦ってはいるのだろう。それは旧ソ連地域への対応にも現れている。しかし、ルーズニュークなどの問題を考えると、残り時間と比較してどうかとなるとまた判断も難しい。その意味で中国共産党政権の崩壊などは日本にとって悪夢ではある。そうなれば多分中東相手の米国の苦労のようなものを背負い込むのだろう。中国の奥地のどこにいるか実態も良く分からない武装勢力が核ミサイル持って日本に資金援助の脅迫とか、洒落にならないだろう。

 議論は様々なれど、私の見解としては、ブッシュ大統領は知性や教養はともかく「大統領としての資質」と言う事になれば歴代大統領の中でも比較的上位に入るのではないかと思う。ライス国務長官も歴代の米国政治家で上位に評価されると思う。イラク戦争にしても今は賛否両論としても、「イラクが民主化の可能な地域なのかどうか」に関しては答が出たようにも思うので、後世には高く評価されるだろう。ただゴールは中東全体で恐らく半世紀コース、先の長い話ではある。
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2005年05月17日

国連安保理改革の行方(番外:助動詞編)

大笑いしました。(参照)というか、国連外交って毎度こんなのばかりなんですが。カシミール抱えるインドに拒否権を持たせるのは色々な国が嫌がるだろうなぁ。

ちなみに今日は風邪でダウン・・・・倒れます。
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2005年05月13日

民間軍事会社に見る政治状況の変遷

 イラクで警備会社に勤務している日本人の安否が話題になっている。実質的には民間軍事会社、平たく言うと傭兵だろう。イラク戦争後の占領統治でクローズアップされてきた民間へのアウトソーシングだが、このニュースを聞いて色々と思ったことを少しコメントしてみたい。

 20世紀前半は二度の世界大戦で莫大な犠牲者が出たわけだが、これは主体的に関わった全ての国の国民がもうこりごりだと思った反面、戦争となれば被害が出るものだというある種の諦観もしばらくは生き続けたように思う。特に米国では輝かしい勝利という政治的な位置付けであったせいもあり、日露戦争後の日本のように、痛みもまた栄光の代償という解釈ではあった。それが変わるのは朝鮮戦争では弱く、ベトナム戦争まで待つ必要があった。
 ベトナム戦争で盛り上がった反戦運動は、当時の若者にインパクトを与えたのみならず、歴史に与えた影響も案外大きいのではないかと考える。世界的な視野で見るなら、話題になったとはいえ数ある戦争の一つで、全世界的な規模の二度の世界大戦はもちろん、冷戦の数十年に渡った大きな戦略環境の方が政治的には巨大だ。中東、または地理的に近い欧州であれば、何度も発生した中東戦争に比べればローカルで、世界各国に与えた影響はむしろ小さいという視点もあるかもしれない。
 しかしながら、私はベトナム戦争が、この先数十年、数百年経過した未来に記述される歴史において、小さくない扱いを受けると思う。なぜなら、この戦争でアメリカの世論が変化したことにより、主要な民主主義国で多くの兵士の犠牲を政治的に容認する国は消滅したからだ。その意味では冷戦より歴史的に大きなイベントとして認識される可能性もある。近年、20世紀の出来事で重大ニュースは何かとアンケートしたところ、20代においては冷戦の終結を上げた人が極端に少なかったそうだ。歴史を長期で見ると冷戦は長期の大国間の平和と見なせないことも無い。我々の知りえない未来では、共産主義という無理な政治体制が、やってみたらやっぱり無理だったと冷淡に記載されるだけなのだろうか。あるいは、例えローカルでも本物の戦争のほうが、火を噴かなかった冷戦よりはやはりインパクトがあるのだろうか。

 話が飛ぶのが私の悪い癖である。いずれにせよ、良くも悪くもアメリカの変化が20世紀以降の歴史の変化ではあった。この後日本では中曽根内閣あたりにバードン・シェアリングの名の下に軍事的貢献の拡大を要求される。これは当時の文脈としては、日本の経済成長に伴い、繁栄する国には義務があるとの理解で進められたようだ。それはその通りだが、ベトナム戦争近辺を境に、民主主義国を世界的な視野で見れば、軍事的な活動は権利というよりむしろ義務の側面が強くなってきたという戦略状況の変化を率直に国民に説明すべきであったかと思う。ただこの状況変化は、社会の発展段階の異なる旧ソ連や韓国、中国あたりにはまだ及んでいなかったし、政治的に理解もされなかった。それ故ここらの国の単純な日本軍国主義復活への懸念が結果としては日本に幸いした。世論の変化を待つ貴重な時間を、結果的には稼ぐことが出来たといえる。
 日本自身の対応と言えば、まさにその世論が変化するまでは、金は出すが兵士は出さないという態度に終始した。そしてなぜ金を出しても評価されないかと世論は反発した。それは当たり前で、日本のような大国がそういう行動をとることそれ自体が、世界的な視座で見た際に金銭の政治的価値を低め、兵力派遣の価値を高めるというだけである。この政治的市場評価を緩和しようと日本が外交的に動いた形跡は見え辛い。

 結局そのような政治的な傾向は、ユーゴ紛争での極端に兵士の損耗を嫌った空爆作戦あたりで絶頂に達するのだが、9.11テロで陸軍を含む軍事行動やむなしとはなった。しかし大局的に見れば兵士の損耗が政治的に容認され難いのは米国とても変わりが無い。他国に頼めないとなれば、政治的に隠蔽可能な方策を模索するのは当然ではある。
 国民国家として、例え職業とはいえど、徴兵制なら市井の市民、志願制としても公務員を危険な地に送るのは抵抗が大きい。しかし、高給目当てで個々人が行ったとなればやむなしと世論が傾くのは当然である。そして思うのだが、しばしば汚れ役を押し付けるためといわれるが、私はこれに否定的である。なぜならそれは民間会社の行為としても発覚すれば政治的な失点になるし、正規軍のように管理しきることは困難であるからだ。そして純ビジネス的にもそれはマイナスの側面が強く、手を染めることはリスク過大であるとして多くの会社が避けるだろう。(もちろん、個々の特定ミッションを必ず拒否するというものではないが)むしろ市場の要素を利用して効率と人道性を高める方向に展開しないだろうか。つまり、政府側で成功裏に治安維持任務を遂げた会社に有利になるようにインセンティブを与える。また会社側としても、そういう結果を出したほうが様々な要素で低コスト、高収益にはなる。中東・アフリカあたりを主要な対象地域として、治安維持任務のマーケットを立ち上げるというのは、長期で見れば人道性の向上に繋がる可能性はあるかもしれない。金儲けしたいという人間の俗な部分をも社会的進歩の材料にしようというのは自由主義国、わけても米国のお家芸ではあるが、そういう行動がまた見られるかもしれない。
 ただここで問題になるのは、展開する候補になる国は政治的に未熟で、短期的にはインパクトのある事件が障害になるかもしれないという点である。例えば英国の会社に勤務する日本人が誤ってイラク人を殺害したとしよう。その場合、現地で矢面に立つのは筋的には英国としても本当にそうなるだろうか。陰謀論に与したくは無いのだが、悪意を持って現地の反発の方向を特定国に向けるようなやり方も可能ではあるなぁ、などと思う。英米の会社なれば行動がビジネスライク故にむしろそういう事は少ないと思うが。
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2005年05月03日

国連安保理改革の行方(3)

(2005.5.4)
 要点だけでも引用しておいたほうが良いとのfinalvent氏の意見により一部修正。確かにそうでしょうね。国連サイトはそこそこ充実してるので一読をお薦めしておきます。

 今回国連改革に関してこのように報じられている。キーとなるのは「国連改革に関して日米共同で取り組むことで合意した」の部分だ。さらっと読むと何でもないが、これはなかなか手堅い話の持って行き方だなと思う。以前のエントリでも引用したが、Feinstein氏の言うように、今回の国連改革は世界的視座で見ればアナン報告書にあるように貧困の撲滅などの国連ミレニアムプロジェクトの一環としての努力にその主な課題がある。外務省サイトにも言及はあるが、国連のサイトには日本語の資料としてもそこそこ用意されているし、英文合わせてこの付近は目を通しておいた方がいいだろう。(参照1/参照2/参照3)安保理改革は最初から実現可能性が薄いし、関心を有するのは新たに常任理事国の座を目指す数ヶ国の問題でしかない。
 そして米国を代表とする主要な民主主義国の懸念としては、安保理改革が失敗した場合、これらの該当する国が国連に非協力的になることである。今回の日米合意はその懸念を逆用して、その国連改革の不可欠な要因として安保理改革も抱き合わせにして話を進めているたことではある。町村外相あたりのリーダーシップだろうか。彼は欧州史の専門家で、学者としては観念主義的ではなく実証派ではある。アメリカの立場としてはそもそも国連に関心が薄いのでどっちでも構わないし、うまくいけば良しという程度なのだろうが、今回はそこそこうまく巻き込めたという所だろうか。それでも最終的に成功するかどうかは確実でない。アフリカの該当国を決めるあたりで破綻するような気もする。ただ無事に安保理改革が進んだとしても、これは安保理のより一層の形骸化のスタートかもしれないということは、日本人は頭に置いておく必要はあるだろう。
 それより日米戦略対話でこういう変化があった。これまで外務次官級で行ってきた日米の戦略対話を外相級に格上げし、場合によってはオーストラリアも交えるという。軽いニュースのように見えるが、官僚でなく政治家が担当することになったのは決定的な変化だと私は思う。これが効いて来るのは時間がかかるが、後で大きな意味があったと評されることになるだろう。
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2005年04月26日

EUと中国の繊維産業貿易摩擦

 ここを読んでいる人に紹介の要も無いと思うが、私も良く拝見している溜池通信さんの昨日のDiaryはなかなか興味深いものであった。米国の繊維産業の対中国の反発がかなり強いようであると。反日デモが微妙なバランスを崩した可能性は確かにあるだろう。先日のトヨタのGMへの協力云々という、ちょっと聞くとなぜ競合他社にそれほどまで、と思われる奇妙さもその背景が分かる気がする。
 さて、この繊維産業というのは、歴史的に貿易摩擦が発生しやすい品目である。今日の日本は産業が高度化しており、競争力自体が確保できないのでかなり昔に国内産業を諦めてしまったような業種である。しかし明治時代などこれが米国との間でかなりの摩擦を起こしていた。ちなみにこの時も輸出ばかりせず内需拡大しろと言われていたのには苦笑するしかない。
 今回のこの米国の反応、国内事情のみならずEUとの協調を考えたフシがある。EUは現在セーフガード発動直前の情勢で、米国と比較してもより強硬姿勢と見られる。中国に融和的なのに、やはり東欧諸国のフォローで大変かと思っていたが、どうも北アフリカ諸国との関係がより大事なようだ。確かに考えてみると当然である。少し古いがこういう資料がある。(参照)表1のRCA指数などを見ると、正直私が何となく思っていたよりはずっと数字が大きく、チュニジアに至っては繊維関連で全輸出額の3割以上となり飛び抜けてトップの部門である。(参照)この付近の諸国の経済情勢はEUへの流入の度合いとも直結し、その方面でのEUの余裕は近年まるで無い。今後ウクライナ等も控えており、近隣諸国の経済を安定化させるのは焦眉の急である。これでは簡単に中国に妥協できる情勢ではなかろう。この付近の感覚は日本人が忘れてしまった内容ではある。
 アジア諸国は概して外交を二国間ベースで考え、世界的視野に欠けるきらいがあるが、この問題などは典型だろう。日本くらいになるとそろそろ貿易摩擦にも慣れてきて少しずつ勘所も分かってきてるのだが、中国はまだまだこれからというところか。
posted by カワセミ at 21:44| Comment(0) | TrackBack(2) | 世界情勢一般

2005年04月24日

日米同盟と近隣諸国の考え

 以前確かフォーサイトに掲載されていたと思うが、米国の専門家の意見で、「日米同盟は米英同盟のように共に戦う性格の同盟ではなく、いわば保険のような役割を果たす同盟」であると書かれていた。これは現状を正確に表現したものではある。しかし同盟が存続するためには長期間に渡り当事国双方の努力が必要であることは論を待たない。この付近に関しては冷戦時代日本側の自覚が極めて薄かった。今にして思えば良く乗り切ったものだと思う。運にも恵まれたし、米国もまずまずの度量はあった。
 この保険という言い方が適切なのは、歴史上ある大国が作った秩序はその国にとっての利益のみならず、結果として国際公共財として利用されていることにもよる。国内で治安が保たれていたほうが経済活動に有利なのと同様、国際社会でもある程度の秩序維持は必要なのである。日米同盟の勢力が決定的に強力であるが故に他の国はそれを前提として行動するだけで構わない。米国は「世界最大の海洋である太平洋は極めて安全」であると誇るが、このような言い方は日本の政治家が行っても構わないのである。韓国あたりには少し費用負担を求めても良いのではなかろうか?そして日本が安全保障上国際社会に何らかの要求をする際は、このStatus quoに対してどういう影響を与えるかを前提に考えなければいけない。そのうちエントリを起こすが、例えば北方領土問題に関して欧州諸国の対応が日本に冷淡極まるものでほとんど支持が無いのは、歴史的経緯を考えると当然である。もっともサミットでドイツに支持を要請するなど、日本の外交もデリカシーに欠けるものであった。「日露二国間の問題」と欧州諸国に口を揃えて言われたのは、「日露二国間の問題で無くなると困る。こっちに迷惑をかけるな」という意味である。

 さて、西太平洋周辺で潜在的にこの日米同盟の秩序に異を唱えそうな国は中国ということになるのだが、中国の立場に立って考えると徹底さが足りないとしか言いようが無い。岡崎久彦氏が「湾岸戦争の時中国が派兵していれば日米関係は危なかった」と語っているがこれは本当だろう。中国にしてみれば決定的チャンスを逃したと言える。米国的には、これは最初から最後まで日本が切り回して終わらせてもおかしくない問題だと捉えていたようだ。19世紀後半にイギリスがそうであったのと同じように。
 中国がアジアで地域覇権を求めるとすれば、結局のところ日米同盟と対立してはアウトなのである。やるのなら日中で緊密に組んで米国を排除する、つまり在日米軍より在日中軍のほうがいいと日本が思うまで徹底して対日外交を続けるというような事をするか、もしくはアジアにおける対米での日本の地位を奪い取るしかない。この場合は米国と同盟を結び、中国本土に米軍の駐留を認めるといった話である、ある程度租界のようなものを作るということになるかもしれない。中長期的に台湾問題も自動解決するというおまけもある。日本に対しては、世論工作で「中国が広大な土地を提供するのに、狭い日本に駐留して住民に負担を強いるのは異常な政策である」とでもアピールすればよかろう。日本が日米同盟の必要性をあまり感じなくなり、思いやり予算のカットあたりまで踏み込んで米国と怪しくなれば後は一直線という気もする。

 要は、対米外交の勘所を彼らが知らないか、知っていても実施できないということである。先日のエントリにも対欧米でアピールするから日本に関しては第二次世界大戦のことをまだ中国が主張するというような事を書いたが、より正確に表現すると欧州にはそこそこアピールするが米国にはそれほどアピールしない。現役で様々な安全保障問題に取り組み、文化的にも概して未来志向的な傾向がある国であるから60年前のことはそれほど響かない。やるとすれば「昔のことは問わず未来志向で」と発言して日米の世論を篭絡しつつ、対立点が出てきたら「かつて経済的に繁栄し、現在は停滞している日本が新興国の中国の足を引っ張ろうとする。これは衰退国の嫉妬という後ろ向きの行為に過ぎない」と全力で主張する、というような所であろうか。
 もちろん、様々な要因で中国はこの種の外交を出来ない。それは日本にとって強運極まることではある。
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2005年04月23日

国連と日本外交

 米国が国連改革の早期決着に反対しないと表明した。別に態度変更というわけではなく、従来から無理だろうと冷淡に反応していたのが、少なくとも既得権益として妨害しているかのような誤解を与えるのを避けたということであろう。日本もかなりの働きかけをしたのであろうが。
 戦後の日本は米国との協調外交と国連外交を主軸として推し進めてきた。中国カードやソ連カードを使おうとした形跡も多々あるがいずれも失敗している。この付近は気が向いたらエントリでも起こしてみたい。そしてしばしば日本の外交力は質が低く稚拙だと言われるが、これは神話的だろう。外交力が低いからこの結果なんですという国内的な言い訳にしている側面が強い。本当に外交力が低ければ世界第二の経済大国にはならない。日本の場合問題を指摘するとすれば質より量だろう。外交に用いる英語は割と特殊で専門的な教育が必要だ。まして外国でジョークでも交えながら巧妙な交渉が出来る人など限られている。英語ですらそうだから他の言語圏は言うに及ばない。とにかくリソースが少ないのである。もちろん一定の量が確保できないと質を論ずる段階にすら達しないというのがあり、その意味では質が低いといえるだろう。そして個別の外交官はそこそこには頑張っている。多々任地惚れがあるのは否定できないがそれは世界中いずれの国も同じである。違うのは政治家がしっかり統括してるかどうかであり、統括しないとチャイナスクールの状態となる。
 米国は単に米国であるというだけでなく超大国として他の国と繋がっている。それがリソースの少ない日本が入れ込んでいる理由の一つでもある。同様の事は国連外交にも言える。多国間外交を少ないリソースで効率的に出来るという理由で、日本の国内事情としては対米外交と対立するものではなくむしろ付随的ではある。そして専制的な政治体制が多い途上国は接待漬けで一本釣りであろうか。結果としてウィークポイントとして残るのは、米国以外の民主主義国で、日本と同じように政治経済の複雑化した社会を抱えた相手との多面的な交渉外交が必要とされる部分である。これは日本が集団的安全保障の行使を公式には認めていないことも阻害要因となっている。もっとも守られるほうに関しては、日米安保といいイラクでのイギリスやオランダやオーストラリアといい、現状でもしっかり行使しているのであるが。ただ経済面よりトップダウン的な側面が強い安全保障分野に関しては、今後多国間外交は幾分やりやすいと言えるだろうか。
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2005年04月19日

弾道ミサイル防衛と日米協力

 先日の実験失敗もあって、ここの所やや静かなミサイル防衛問題であるが、もちろん推進中止というわけでも無く着実に進んでいる。成功しているイージス艦搭載型の比重が高まるかもしれない。端境期ではあるがちょっとコメントしておく。
 まず、米国におけるそもそもの経緯としては、少し古くなったがこれが良くまとまっている。(参照)この48州に対する楽観的な見方というのがミソで、アラスカとハワイの議員は当時相当怒ったらしい。でまぁ、だったらグァムはどうする、それなら近い日本も守って金と技術で協力してもらったら効率いいんじゃないのか、というのがごく自然な流れで出てきたというだけのようだ。変に米国からの圧力を言い募る人間がここでもいるようだが、さぞや先方は苦りきっていることだろう。別に断ってもいいのである。もっともそれがいいとも思えないが。
 これに対して、核武装して抑止を成立させることが本筋で、盾は必要ないんじゃないかという意見があるようだ。それはそれで一理ある。しかし、以前のエントリで安全保障における構図を説明したように、世の中は抑止の成立する相手ばかりではないのである。例えばアルカイダのような組織であればアメリカに反撃能力があろうがあるまいがミサイルが手に入れば撃つし、どう転んでも防御対策は必要というだけの話である。技術的困難さが大きくても、やれるだけのことはやらなければいけないという側面が強い。しかし日本の周辺は一見すると抑止が成立しそうな国であるために攻撃能力取得による抑止重視の判断に傾くかもしれない。ここでも日米の安全保障に関する意識の差が見えるし、潜在的な乖離要因ではある。
 そして指摘する人は案外少ないが、政治的効果というのがある。抑止が成立する国であれば、迎撃効果が少ない段階でも相手が恫喝が通用しないと断念し、政治的に穏健な主張にシフトする可能性がある。それと、防衛網で同盟国を統括することそれ自体が集団安全保障の枠組が機能していることをアピールできる。ここでは欧州のアジア諸国への外交的影響力が決して少なくは無い事も念頭に置かれているかもしれない。ただ仮に付いて来る国が無いとしても日米は推進するのだろう。
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2005年04月14日

国連安保理改革の行方(2)

 前回のエントリでも書いたが、予想通り見事に難航している。日本、ドイツ、インド、ブラジルで協調して加盟を目指したのだがどうもこれが裏目に出たようである。このうちの一ヶ国に反対する国の動向として、セットに対して反対しきれないだろうと踏んだようだがそうではなかったようだ。確かに考えてみるとこのセットに反対したからといって何かの実害がその国に発生するとは考えにくい。現状のP5は、中国を除き積極的に意見を表明しても政治的に労力をかけるだけのインセンティブが無い。というより、元々機能することを期待していない安保理に関して労力をかける必要性がそもそも薄いと言える。結局安全保障は自前か同盟関係でやっているというのが世界の現実ではある。

 日本の国連外交は地域共同体への関わりが無い故の多国間外交の代替策という側面、場合によっては国内的に対米追従ばかりではないという言い訳をするためのガス抜きという要素があるが、総会などはともかく安保理に関しては参加する事の意味は薄いのではないだろうか。全般として国際連盟の時と似たような経過を辿っているのは苦笑するしかない。それにしてもなぜこういう局面でも「アメリカが悪い」と絶叫する人が日本には多いのだろうか?当初から国連などどうでもいいと思っている国に言っても仕方の無い話である。強い思惑のある国は他にいくらでもある。
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2005年04月11日

文明の伝播について考える(2)

 以前のエントリの後、トラックバック先のやじゅんさんのエントリでコメントをさらに返そうかと思ったのだが、ちと長くなるし話も拡散しそうなのでこちらに書いておく。関連もあることだし。

 私は日本と西欧の辿った道はやはり相似性があると考えている。そして、両者がこれだけ地理的に隔絶し、かつ交渉が直接的にはほとんど無かったことを考えると、やはり「銃・病原菌・鉄」的な自然/社会科学的アプローチからある程度原因を求めざるを得ないのではないかと考える。条件的には以下のようなものとなるだろうか?

・温帯に位置し、農業の生産性が高い
・山河で適当な地理的区切りがあり、大規模な統治単位が生まれにくい
・そのため、地方分権の歴史があるが、おおまかな国・地域の文化的一体性はある
・近隣の大勢力からの軍事的侵攻は困難だが文化交流は可能

 最終項目は、日本に関しては中国を、欧州に関してはイスラム勢力を想定している。

 そして封建制度から近代国家に至るまでの過程では、権威主義的ではあっても開明的な政治体制が中間的に存在する。つまり、社会や産業の発展段階が類似していれば、人間社会で組み立てる政治システムはそんなに大差ないのではないか。というより条件的に拘束された中で最適解をタブー無しに追求すると同じようなものではないか。江戸時代の鎖国状態がある種の凍結状態だったとすれば、全般として鎌倉時代以降は充分な相似性を持って語れると考えている。この江戸時代への認識は注意するべきで、今日の日本人が伝統的な日本の価値観と考えるものは大半この江戸時代のものである。儒教的な価値観も半ば政策的な側面があるし、室町・戦国期などはむしろ欧州なり近年の日本に近かったのではないかと私は考えており、それはかなりの研究結果がありそうにも思う。(まぁ、ここらは特に勉強不足なところなので半分勘だ)

 違いの部分は哲学や思想であろうか。これは言語的な条件の違いがあるかもしれない。人間は言語なくして思考できないと聞くが、漢字文化とアルファベット文化で人間の物事の考え方は違ってくるようだ。ただこれはという確定的な研究結果は無いか社会的に言い辛いのだろう。それでもひらがなやカタカナがある日本語は中国と比較してやや欧州人のそれに近くなるのかもしれない。ただ乱暴な断定に過ぎるのは認めざるを得ない。

 そしてしばしば日本人が自問する「日本には自前の思想や哲学があるのか」と言う話になれば、まさにその問いを発すること自体が西洋的な文脈でしかあり得ないだろう。日本は昔から積極的に思想や哲学を必要とはしてこなかった。こういうと誤解を受けるが、現実世界でのツールとしてか、もしくは宗教としてのそれではないか。自然に成立して、他国との交渉が少ない孤立的な国家ではコンセンサスで充分という見方もある。

 萬晩報にいいコラムがある。筆者により随分内容の違うサイトだがこれは良かった。まぁ、この映画を見てないと分かり辛いかもしれないが。文系的ないい文章はあんまり目にしてなかった時期なのでその意味でも感心した。少し引用する。

 「つまり、私たちは、この映画でいうなら、明らかに、否応無しに、明治陸軍のオオムラの側にある。それを形だけと言おうが建前と言おうが、心は許さじと言おうが、私たちは着物を脱いでちょんまげを落としたその後に続いている以上、それはどうあれ西洋化がインストールされた後の姿である。しかも、あろうことか、私たちはそのようにして成ったものを「日本」と呼び習わしている可能性もある。

 我々はこれをしばしば忘れている。まさに、日本人自身の哲学や思想について悩むこと自体が、過去我々の祖先が何かを選び取り、何かを捨てた結果としてそこにある。与えられた条件下で最適解を出す日本人の特質は明らかに江戸時代のそれで培われたものだ。だから明治のそれを何かに追い立てられたと感じる。しかし時間が永遠に止まるわけでもない。戦国期に世界有数の鉄砲生産量を誇った事も遠く日本の伝統ではある。そしてそこでのある種の選択は日本的なものではなかったのか?それがまさに議論の核ではないか。

 自由も民主主義も、今の日本人はそれ無しでは全てのアイデンティティが成立し得ない。確かに我々は西洋の子孫でもある。中華文明の子孫でもあるように。遠いからこそ口では語れる民主的ではないがそれなりの世界。それは現代世界ではありもしないか、あったとしても今の日本人からは絶望的にしか見えない社会。黒船襲来から一世紀半、自由や民主主義を自分のものと考えるのには充分な時間ではないか?

 かつてギリシャに源流があり、ローマを経て、近代の民主主義の起点は西欧と見なされるようになる。今はアメリカがその本家であるように振舞う。文化や思想の中心は時代によって変化する。日本が中心、とまではいかずとも、主力を担うようになっておかしいというものでもない。適切な戦略、システムや体制の構築は米国に分があるように、現実世界での実現プロセスは日本が長けていると言えるかもしれない。コストを担う意欲は別の議論としても、もう借り物ではないと思うのだ。
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2005年04月04日

文明の伝播について考える

 やじゅんさんがなかなか力の入ったエントリを書かれている。大筋で私も同意である。ちょっと触発されたので、大変迂遠ではあるが欧州の植民地支配などを含めて古い歴史から語らせていただこうと思う。

 ピュリッツアー賞に輝いた、ジャレド・ダイアモンド氏の「銃・病原菌・鉄」という名著がある。人類の歴史を科学的な側面から考察した書で、特に前歴史時代を扱った上巻は完璧でありご一読をお薦めしたい。(プロフィールページのリンク)様々な優れた記述があるが、本エントリの論に繋がるものとして、以下の部分を取り上げる。

 ・一万三千年前、最後の氷河期の終了時点、全地球上に広がっていた人類が
  同時に歴史のスタートラインを切った
 ・人類が有効と考えた穀物・家畜は極めて少ない種類に限られている
 ・その特定の少ない種類がその場所に存在しているかどうかで大きな影響があった
 ・結果として、自然環境の影響で社会の発展速度が異なった

 この指摘に加え、熱帯地方では疫病が多く、乳児のみならず成人の死亡率も高いということを挙げたい。この結果人口増加率は異なり、16??18世紀あたりでの世界の人口分布、平均寿命などは自然環境が影響した違いがあった。古い時代を含めたなかなか良いデータがないのだが、Wikipediaで大陸別の世界人口が1750年以降記されているものを挙げておく(参照)。平均寿命も違うのは間違いなく、このページでは日本でも江戸時代あたりには40歳強にはなっていたようである(参照)。欧州も条件の良い地域では近い水準になったであろうか。イギリスなどは最近まで厳しかったと聞くが。イタリアの一部の都市がどうかという程度かもしれない。

 そして欧州は世界中に乗り出していくわけだが、当時の情勢はどうであったか。医療技術などは現地の人間には大変な魅力を持っていたに違いない。小麦で作ったパンは食したことの無い人には大変な美味であったようだ。日本のように稲作があった地域では相対的に価値が低かったと言えるだろうか。いずれにせよ文明との接触は人々の意識を変え、社会を変えざるを得ない。そして自然環境により養える人口は古来決まっていたというのに、産業革命以前の発展段階であった途上地域で、増大した人口を支えるための選択肢はさして多くなかった。植民地支配であるから当然欧州人の搾取はあった。しかし何もかもすべてトータルで見ればどうか。そもそもそれまでの社会はどうであったかを考えるべきだろう。人口も少なく、20歳そこそこで多くの人が死んでいく社会は、それはそれでいいと当時の基準としても言えるのか。アフリカあたりの平均寿命が延びたのは最近としても。(近年のエイズ禍は恐るべき悲劇だが、それは別の論議とする)少なくともアジアにはダイナミズムをもたらしたのではないだろうか。明の後期、中華文明は停滞気味ではあった。東南アジアは戦国後期・江戸時代初期にはかなりのフロンティアであった。
 また帝国主義は今日形容詞的に使われるがせいぜい19世紀後半の数十年のアフリカ分割を指すべきであろう。それ自体はむしろ文明をもたらしたとは言えないか。結局のところ現地の人間が、選択肢の少ない中で選び取ったものではなかったか。

 そして日本の歴史はどうだろう。幕末に西洋文明と本格的に接触したが、そこで我々は啓蒙主義を前向きなメッセージとして受け取ったように思う。日本において法の支配は長い伝統がある。鎌倉時代の御成敗式目は世界的に見ても先進的なタイミングだったのではないか。三権分立はその先進形と見られたであろう。コンセンサスを主とする伝統は、議会政治をその先進形と見たであろう。結局明治初期の急速な改革は、思想的に日本の伝統との相性が良かったからと素直に解釈して良いのではないか。当時の「万国公法」に対する憧れなどもその現れではないだろうか。反発があったとしたら儒教的な伝統の部分であろうが、大日本帝国憲法を見ても、うまく折衷案を作ったように思う。
 結局日本は最初から最後まで合理主義者として振舞ってきたのだ。日本の外交が対外的に弱腰だなどというのは神話的でもある。それは現代にも引き継がれているだろう。
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2005年04月01日

国連安保理改革の行方

 安全保障理事会の常任理事国増加問題が議論されている。様々な国がそれぞれの立場から行動しているが、新常任理事国として有力な国と対立関係にある諸国は「コーヒー・クラブ」と呼ばれるグループを結成して活動しているのは有名な話である。こういう国も共同歩調を取るらしいが面倒な話でもある。ちなみに推進派は「サケ・クラブ」らしい。

 ところで大半の日本人はすっかり忘れているようだが、かつて日本は国際連盟の常任理事国であった。そして当時、議長国として常任理事国増加問題に苦労していた事がある。具体的にはこんな具合である。石井菊次郎は石井=ランシング協定で知られる戦前屈指の、恐らく最後の名外交官であり力量に不足は無い。そして現在と比較してずっと加盟国も少なく、条件はましだったはずなのにまとまらなかったのである。ちなみに投げ出したのはベルギーのあたりらしい。

 そして現在もアフリカから二カ国加えるあたりですったもんだしている。エジプト、南ア、ナイジェリアあたりが有力国として手を挙げて、それなら俺もとこんな状況になっているあたり、状況が当時と大差ないようでもある。まぁ、だから数を決めた後に国を決めるという順序で進めるのであるが。

 ちなみに米国の国連専門家の意見で、結局無理だろうと軽くスルーしているのは苦笑するしかない。そこに民主党的冷淡さが見て取れるとしても、見通しとしては恐らくさして間違ってもいない。戦前の日本のように、うんざりしているのであろう。なお今回の改革の争点がむしろ別の場所にあるというのはその通りでもある。世界の大半の国が常任理事国増加問題で得をしない以上、当然ではある。
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2005年03月28日

現代の安全保障を考える

 ブログ設置は勢いでやったものだが、やじゅんさんのこの付近の議論に刺激されたのが最後の駄目押し。知識や教養はもちろん、物事の本質的な部分に迫ろうという心のあり方を私も見習おうと思う。まぁ、勝手に手本にされるのも迷惑な話かもしれないが。

 さて、世の中で安全保障問題の議論が近年になく盛り上がっているが、昨今の世界の様相に関して、私が考えている事を記しておきたいと思う。似たような分類は特に保守派の評論家に少なくないかもしれないし、個別の問題で当てはまらない事が多いことを最初にお断りしておきたい。これは全体構造のマクロ認識であり、安全保障の思考に補助線を引く目的と理解して欲しい。安全保障??直接には政府や知識人レベルの戦争観とも言えるが、大まかに世界の国を以下のように分類する。

 第1レベル:
 米国、日本、欧州諸国など、民主主義政体を持つ先進工業国。
 第二次世界大戦後のstatus quoを基本的に擁護ないし容認している。
 外交は言論による対話を基本とし、武力行使は特殊な非常時のみ。

 第2レベル:
 中国、旧ソ連などが代表格。政治形態は権威主義的な場合が多い。
 Status quoを容認する側面もあるが、不満をある程度抱えている。
 国内的な統治能力はそれなりに有している、外交は19世紀的な軍事力を
 背景とした弱肉強食的な考えを有しているが、判断は概して理性的であり、
 抑止により一定程度の世界秩序形成に参画可能。

 第3レベル:
 多くの途上国が該当する。中東・アフリカの少なからぬ国が含まれる。
 Status quoに関しては否定的か無関心のことが多い。概して統治能力は
 低め、近隣諸国に対し実際の軍事行動に及ぶことがしばしば発生する

 第4レベル:
 アルカイダ等の非国家アクターによるテロ組織。
 軍事力行使そのものが存在価値となっている。

 なお、レベルの異なる国家間で安全保障問題が発生した場合、基本的にレベルの低い側に外交原理が拘束される。すなわち旧ソ連や中国に対しては抑止が必要であったし、クウェートに侵攻したイラクに対しては軍事力を行使して対応する必要があった。そして国によっては各レベルの中間的な振る舞いをする存在があり、対応も微妙なことがある。例えば現在のロシアは一部民主的でレベル1・2間とみなされ、抑止を捨てることは出来ないが民主的アプローチによる対話は一部有効である。また北朝鮮は基本的に第3レベルとみなされるが、実際の軍事行動は引き起こさず第2レベルのような行動を取ることも多く、対応が難しくなっている。(ライス国務長官がイラクと北朝鮮の違いを聞かれ、「朝鮮半島では半世紀に渡って抑止が機能してきたが中東地域はそうではない」と回答したのは、本質的な部分を端的に表現している)

 ここで、近年の主要国の外交姿勢について個人的にコメントしてみたい。

 第一次世界大戦後の欧米、第二次世界大戦後の日本のような絶対平和主義外交は、多大な戦禍を受けた国民国家に発生することがある。平和主義は価値の高い考えであるとは思うが、これは全レベルの国家に第1レベルの行動原理を性急に求めるという形になり、現実にそぐわないことが多い。

 現在のフランスを代表とする欧州諸国のように、先制攻撃を否とする考え。これは多くの外交局面で有効であり、国際社会で最後まで生存するのに適切な方法である。しかし、第3レベル以下のように抑止が成立せず先方から先制攻撃に及ぶ可能性を多々秘めている国と安全保障問題が発生した場合には、相手国が一方的な行動を継続し、段階的に戦禍が拡大して致命的に危険な状況に至るまで切迫する可能性がある。これは化学兵器・核兵器がからむと悲惨な事になる。

 現在の米国。完璧でないものの、相手によって各レベルでの対応方法を変える外交をそれなりに実行しており、基本的に唯一の対応方法。

 つまり、判断方針としては現在の米国の考え方が比較的正解に近いが、それを具体的にどのように遂行するかという点に関しては色々と議論がある、ということであろう。

 そして日本の安全保障観に関しても、やはり懸念が残る。近年の日本と西欧は、冷戦時代と比較しその立場を入れ替えたと言えるのではないだろうか?日本は相対的に厳しい環境となっている。しかし絶対平和主義からは脱却しつつあるとはいえ、近隣諸国の状況を見ると、第2レベルまでの内容しか対応出来ないようにも思われる。同盟国の米国は第3・4レベルも含めて世界的な同盟を期待するのであろうし、そこで摩擦が発生するかもしれない。
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2005年03月27日

ジョージ・F・ケナン追悼

 しばらく前のニュースになるが、やはり一言述べておきたいと思う。知っている人にとっては私が一々説明する必要も無いし、そうでない人は著作を読めばそのまま価値が伝わってくる。手頃な文庫で出ているので多少なりとも現代の国際政治に興味のある人は目にしておいて欲しい。
 氏の業績はリアリズムを旨とする外交にあった。しかし今日我々が、特に日本人として参考にすべきは、その率直さと現実に妥協しない精神力であろう。それは米国外交の最良の部分を構成してもいる。ここでは有名な「X論文」を例に取るが、展開される議論は一つ一つの要素を見ると(もちろん、当然のごとく挙げている各要素に関して該博な知識がそれを支えている)それ自体は当然の事実であり、導き出される結論も順当なものである。
 しかしながら、当時の情勢を考えるに(私は皮膚感覚で知っている世代ではないが)19世紀的な欧州貴族外交の文脈で対話と妥協を繰り返し、現実を進めようとする勢力は実に強かったと思われる。「封じ込め」という外交方針、今日の我々は確かにそれが恐らく最良であったと理解できる。しかし当時の日本はもちろん、現在の日本でもそれを貫徹出来るほどの政治的決意が醸成されるとは思い難い。また他国でも、少し時代が下がった、まだしも相当マシなフランスですら「deadよりred」という見解が強かった。仏共産党はソ連共産党の妹と言われていたが、露仏同盟の再現みたいな錯覚でもしていたのかと思うとそれもあの国のある種の限界であろうかと思う。
 そして、今日の基準で、もう一度この中の一節を引用して考えてみたい。「世界が自分の敵であるという命題について自分の正しさを証明してみせることは、確かに誰でもが持っている特権である。なぜなら彼が何回となしにそれを繰り返し、これを自分の行動の背景とするならば、結局は世界を敵に回してしまい、彼が正しいことになるからである」そう、日本の近くにもあるように思われるし、世界にはそういう見解に至る国や組織が多数ある。まさにそういう根幹問題こそが対処しなければならない問題の本体であって、個別の交渉事の成否ではないのだろう。本質を決して見失わない外交を続けるのは困難だが、曲がりなりにもそれを継続してきたのが米国であるから唯一の超大国として残ったのではないか。そして後進の者はケナンを凌駕していったようにも思う。昨今の米国だとライス国務長官あたりにその伝統を見る。その意味で役目を果たし終えたという感が強い。
 外交は、短期的には様々な障害がある。そして政治的に重たい決定は官僚には出来ず、常に政治家の仕事だ。これは日本だけの話でなく当たり前のように世界共通の事ではある。官僚はあくまで行政の専門家であり、政治の専門家ではないからだ。そして長期で貫徹可能かというのは結局国民全体の資質による。21世紀初頭の本質とは何か、昔以上に見極めるのが困難そうではある。
posted by カワセミ at 18:21| Comment(4) | TrackBack(0) | 世界情勢一般