2006年04月27日

現代のヴァイオリン演奏家たち

 今日はいつもの政治ネタはお休み。たまには趣味の話でもということで、いくつか自分の聴いたCDを推薦してみたい。


 クラシック音楽の愛好家であれば良くある話であるが、必ずしも最新録音のCDばかり買い集めるというわけでは無いだろう。むしろ何十年も以前に録音された歴史的名演のCDを買い揃えていく場合が多いのではないか。精選されたものがベスト・クラシック100などの形で各レーベルから安価に発売されていたりするし、現実に(特に指揮者などは)優れた人々が多く故人となってしまった事情もある。作曲の分野では19世紀くらいまでに多くの業績が果たされてしまったように、演奏の分野でも1960年代までにある曲の最高の演奏は録音し尽くされてしまったのではないかという意見もしばしばある。私も例外ではなく、棚に並んでいるのは大体古いCDばかりである。ちなみに一番古いソースは19世紀のブラームスの肉声だろうか。辛うじてそうと分かるかどうかであるが。それは極端にしても50??70年代のものは確かに多い。


 しかしながら、近年は若いヴァイオリニストで優れた人材がかなり出てきている。今回、個人的に非常なファンとなった3人のヴァイオリニスト、マキシム・ヴェンゲーロフギル・シャハムヒラリー・ハーンの3名を紹介したい。いずれも有名で好楽家にとっては蛇足も良いところであるが、上記のように往年の巨匠の演奏ばかり聴いている人にはぜひとも耳にして欲しいと思う。ちなみに音楽ネタという事で以前にコメントしたぐっちーさんのこの付近のエントリにTBを。ピアノの弾ける経済通のブロガーは格好いいなぁ。


愛の喜び/愛の悲しみ

 マキシム・ヴェンゲーロフ(公式サイト)は1974年生まれのロシアのヴァイオリニストである。完璧無比な技巧からハイフェッツと比較されるような言もあるが、若くして巨匠的なスケールの大きさを持つことから、むしろ氏自ら尊敬するというオイストラフのほうがタイプとしては近いかもしれない。個人的には聴衆に語りかけるような親密な響きから、クライスラーのような趣を感じることも多いのであるが。いずれにせよ、今回挙げた3名の中では最も昔ながらの名演奏家のイメージに近い人物である。録音は本来大曲のほうが向いているタイプだと言えるだろう。しかしながら、私はこのヴァイオリニストの特徴が良く分かる小品集のCDを推薦したい。タイトルとしては有名なクライスラーがチョイスされており、それも素晴らしいのだが、ヴィエニャフスキの小品は最高だ。ヴァイオリン音楽を聴く楽しみの典型と言えようか。様々に表情が変化し、繊細かつ骨太な実質のある音楽が展開する。音楽家には様々なタイプがいるが、「信頼」を提供するタイプの人物ではないかと考える。確かに良い音楽を聴いた、聴いて良かったと思うのではないか。


ヴィエニャフスキ/ヴァイオリン協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 作品14

 ギル・シャハムは1971年生まれのイスラエルのヴァイオリニストである。出生はアメリカだが2歳の時に移住したという話である。ユダヤ系ヴァイオリニストとされ、3人の中では最も録音が多い人物である。
 若い頃から超絶技巧で名を挙げ、例えばこのヴィヴァルディの「四季」のCDは目覚ましい限りの演奏で、これを聴くとイ・ムジチの演奏など寝てしまいかねない。「冬」の第一楽章など呆然とした。バロックは多少やり過ぎの方がいいかもしれない。
 しかしながら、本来の演奏スタイルはむしろ学究的ではないだろうか。ここではヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲のCDを推薦しておきたい。名曲で最近知られてきてはいるがそれでもまだまだ世の評価は低いと思われるほどのこの曲、技巧は知性の支えとなり、細部まで光を照らす最高の武器になっている。しかしながら分析的過ぎず、見事に音楽が流れている第一級の演奏である。シャハム氏は大手レーベルだと有名曲ばかり演奏させられると自主レーベル「カナリア・クラシックス」を立ち上げたそうだが、音楽性はそれを頷かせるものがある。確かに自由にやったほうが良さそうなタイプだ。フォーレ盤などが出ているそうで、これから買い求める予定だ。

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
 最後に最も若いヒラリー・ハーン(公式サイト)を紹介する。彼女は1979年生まれのアメリカのヴァイオリニストである。若い頃から令名高く、短時日で全世界的な名声を築き上げた。一見して最近のレコードレーベルがしばしばやる若いうちだけルックスで売り出すタイプかなと思ったが、全力でそれを恥じることになった。
 驚嘆すべき能力としかいいようがない。amazonの紹介文に「レーザー光線のような強度と直進性」という形容で紹介されていたが、青白く燃え立つような怜悧で知性的な情熱を持つ演奏を形容するのに誠にふさわしい。メンデルスゾーンの協奏曲を聴いて、散々聴き慣れたこの曲がなお魅力的に聴こえるのに驚いたが、圧巻はこのブラームスのヴァイオリン協奏曲のCDである。私はこの曲の演奏として、オイストラフ/セル盤が一番気に入っていた。何と言うか、ある種の「格」とでもいうものがこの曲には必要であり、それを満たす数少ない演奏だと思っていたからだ。もちろん今でも素晴らしい演奏だと思っている。しかし、鋭く本質に切り込むこの演奏が、本当に久々にある種の呪縛を解いてくれた。
 トスカニーニの演奏を評するとき、それを「正しい演奏」と形容する時がある。好き嫌いはあれど、その演奏に接したときにそれを間違っているとは指摘できない、いやむしろそれはある種の規範であると否応無しに認めなければならない種類の演奏だという意味でそのように言われるのであろう。そしてこのハーンの演奏も、そういう「正しさ」を内包しているとどうしても認めなければならない種類の演奏と考えるしかないのだ。しかも現代的なシャープさと知性を持って、それがそこにあるのだ。現在有名な女流ヴァイオリニストとなるとムターやチョンキョンファといったところになると思われるが、正直どうでもいい。彼女が今現在の段階で、「格」において疑いも無く凌駕していると確信している。ちょうど今週末、NHKのBS-Hi(参照)でベルリン・フィルとの競演にて彼女の演奏が見られるので大変に楽しみだ。曲も十八番のショスタコーヴィチということで期待できる。まぁ、そういういいタイミングだからこのエントリを書いたというのはこの段階で大体分かってくれたと思うが。


 往年の名演に酔うのは素晴らしい。しかしながら、「昔の演奏家は良かった、今の演奏家は云々」などという良くある言い草は、それが真実であっても何一つ価値の無い発言であろう。そのような寝言を多くの凡人が述べている間に、颯爽と彼らは前進し続けている。しばしば音楽の鉱脈を掘り尽くしたように言われる21世紀にも、まだこのような大きな成果が見事に示されている。可能性はまだまだ限りが無い、それを確信させてくれた現代の天才たちに、今心から感謝している。

posted by カワセミ at 00:31| Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽

2005年05月24日

音楽を再現する機器としてのヘッドフォン

 私はちょっと疲れたりのんびりしたい時に音楽を聴くことが多いのだが、現在はなかなか時間も取れない。似たような環境の人も多いと思いつつ私見を。

 普通に昼働いて夜帰るような生活をしていると、家でゆっくり音楽を聴くといっても夜になってしまう。大音量でスピーカーを鳴らすわけにも行かず、BGM的に小さな音量で我慢するか、さもなくばヘッドフォンで没入するように聴く人が多いのではないだろうか。日本の住宅事情では音楽に集中するとなると方策は限られる事もあり、好む人は多いだろう。私も他に選択肢も無くそうしている。
 しかしこれが結構曲者である。昔長岡鉄男氏が、「音が頭の周りに張り付く不自然な響きはオーディオとは言えない」と一言で喝破していたが、これは本質的な指摘なのである。なぜなら、特に日本人に特有と思うのだが、音楽を時間のみならず空間の中に存在する芸術と認識する人が極端に少ないことにある。にもかかわらず、S/Nとか音像の明瞭さ、分解能などには極端に潔癖な人が多い。これは録再機器の評判は良いがスピーカーはさっぱりという日本のオーディオ製品の評判にも反映される。
 ただその逆で、音楽的経験の多寡によって表面上逆の反応になることもある。比較的近年までデジタルオーディオよりアナログオーディオのほうが音楽的だと主張していたマニアの存在などがそれだ。まぁ今でもいるかもしれない。しかしCD登場の時期、ベルリン・フィルやウィーン・フィルのメンバーに聴かせて感想を聞くと、比較にならないくらい情報量が多いとして強く支持されたと伝えられている。曰、今まで分からなかった「誰がどう弾いているか」まで分かるという話だ。

 私は若い頃からの好楽家だが、大学時代に趣味でヴァイオリンを弾こうとして、生来の不器用さから一瞬にして挫折した経験を持っている。もう思い出すだけで情けなくなるのだが、それでも良い経験にはなった。これは実際に手にしてみないとなかなか分からないのだが、一般に下手なヴァイオリンのイメージとしてギーコギーコという嫌な雑音が発生するだけの風景がしばしば連想されるが実はそうではない。かなりの初心者でも音そのものは極めて綺麗に響き出す。しかも今までどんな録音でも聞けなかった独特の複雑な響きがちゃんと出てくるのである。「楽器の女王」と言われる理由をこの時やっと理解した。そして合奏に及んだときの響きは言うまでも無い。
 素人でこうであるから、プロだと勿論段違いだろう。LP時代は当然として、CD時代で音楽を聴き始めた人もかなりの情報が落とされた状態で慣れてしまっていると思う。大半の人はこの落差の実感が無いままだろう。この事実が恐らく普通のオーディオマニアと演奏家の認識の格差になったはずだ。そしてヘッドフォン一つ作るときも、このリファレンスを熟知しているかどうかが反映される。2chあたりのヘッドフォンレビューをまとめた便利なページがあるが(参照)、内容を見ると人により随分反応が違う。当然のことではあるが。 
 私が現在使用しているのはAKGのK501というモデルである。これは最も個性的な部類に入るかもしれない。用途はほぼ「クラシックの室内楽」のみに限定されていると言って構わないだろう。オーケストラやピアノになるとアタックの部分などでもう少し物理特性が欲しくなる。しかし弦楽器には本当に抜群で、確かにその楽器の音として鳴る。他のヘッドフォンがMIDI音源並みの不自然さに思えるくらいにだ。ちょっとしたニュアンス、これで無いと駄目というのがちゃんと出る。ただしエージングは何十時間もかかるので継続使用が大事だが。
 まだ聴いたことは無いが、ゼンハイザーだと大編成の音楽にも合うのだろうか。STAXはチェンバロなどは抜群だがハイエンド機しか物の役に立たないという印象がある。ちなみにSONYは、10年位前のモデルでは市場を意識しながらも音楽に対する呼吸が分かっていて、極力頑張っているという印象があったが、近年のモデルは価格を問わず駄目という気がする。担当者が変わったのだろうか。
posted by カワセミ at 00:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽