2011年06月01日

どういう政治家に憧れ、倣おうとするのか

 雪斎殿がエントリーを更新し、菅直人首相にに対して「彼は政治家として誰に憧れ、誰に倣おうとしたのか。」と問いかける興味深い論を記されている。「中興の祖」を高く評価するというこの論は、氏の過去のエントリにもそのような考え方が滲み出ており、頷けるものがある。現役の政治家ならともかく、自分が考えても仕方が無いのだけれども、誰かの文章に刺激を受けて何かを記すというのが本来のBlogのあり方でもあろう。せっかくの機会であるから自分ならこう考えるというのを記してみたい。この文章を読んでいる読者諸氏も、多くの政治家を思い浮かべ、誰を評価するか、誰に共感するかというのを考えてみてはどうだろうか。

 まず、基本的な考え方であるが、私はこの問いに対して、戦国時代やら、もちろんそれ以前の昔の日本の人物の名を上げる人をあまり高く評価しない。政治は人の考え方の営みであり、現代と社会状況も人の考え方もまるで違う、より正確に言えばどのように違うかも把握することが難しい過去を挙げるのは適切で無いと思うのだ。もちろんその意義がこの種の問いが上がる全ての局面でゼロというわけではない。しかしより適切な回答を回避しているように思える。まして現役の政治家でそう言うとしたら、それは夢想的な無責任者の傾向があるとは言えないだろうか。
 
 それ故、明治以降の政治家か、海外であれば17〜18世紀あたりから後の欧州諸国の政治家、地域によっては19〜20世紀以降の政治家を挙げるのが良いと思う。さらに自分の偏った考えを付け加えさせて貰えば、本来は現代に生きて活動している、今の日本であれば衆参両院の議員から選択するのが本来のこの問いへの誠実な回答では無いか、と考える。
 
 勿論、棺を覆いて初めて評価定まる、は政治家のどうしようもない宿命であり、永遠の真実であろう。しかし政治が生きている人間の営みである以上、本来は現在活動している人物を挙げるべきという考えを維持しておくのは一つの在り方では無いかと思うのだ。

 それでも日本国内の人物となると、実際に挙げるのはそう言った自分自身でも困難である。もちろん、それは今時点での自分自身の無知から来るものではあるが。強いて挙げれば、近年では高い評価を受けた小泉元首相を挙げるという考えもある。ただ、確かに在任中の各種政策の切り回しには多く共感する所もあったのだが、歴史的評価は怪しいかもしれない。「改革の可能性を示しながらそれを最後まで貫徹すること無く、少子化で経済の活力が縮小する日本の貴重な時間を浪費した」となるかもしれぬ。

 そのようなわけで、私が挙げるのは英国元首相のトニー・ブレア氏である。何が何でも国内から挙げるという考えの人もいるが、私はそのように思わない。少なからず同時代を生きた人物は同種の困難に立ち向かい、成功と失敗の一部を共有していると思うからだ。そのような意味でもブレア氏はふさわしい。

 近年の日本では、意欲を持って何らかの政策を推し進める政治家は、内容が大筋妥当なものであっても、それが一定程度必然的に持つ負の側面によって損害を被る人々の反対の声に過剰に萎縮し、推進仕切れないことが多いと考える。結果、不作為が続き、当面は平穏な日々が経過し、重要な課題は放置される傾向がある。(とはいうものの、福島原発事故という究極の事態により不作為の罪に目が向けられつつはあるが)今の日本の政治家に必要なのは、課題を設定し、期限を切って実行する勇気なのである。この勇気という側面に関して、小泉元首相も含めて全くの不作と言える。それを思うと、任期中、ひたすら火中の栗を拾い、少しでもよりよい社会を後世に残そうとした氏の営みは誠に政治家としてふさわしい。氏を賞賛するとしたら、誰よりも英国の宰相らしく行動した、ということになるのだろうか。日本人としては外交問題が記憶に強い。ユーゴ問題など、人権に関する確固たる信念が中核にあることが成果を生んだ。彼がいなければより長い期間放置されたろう。しかし、むしろ国内の医療改革やアイルランド問題など、地に足を付けないと遂行できない地味な問題で成果が多かったように感じられる。若干世間離れしている感もあるオバマ氏に得て欲しい部分ではあるが。

 この種の立場に立つ政治家は、存命中には成果は部分的なものであったり、挫折したりという事が多い。他に私が尊敬する政治家として板垣退助や犬養毅を考えてみても、いずれもそうである。それでも、政治の要諦は人の考えであるので、それを少しでも良い方向に変化させた人物は、その国や地域の政治の土台として社会全体を底上げした成果があると考える。ウィルソン大統領などもそうであろう。また板垣氏を挙げるなら英国のグラッドストン首相を挙げるのがより適切と指摘する人はいるかもしれない。氏は第四次内閣のアイルランド法案を否決された。少なくともこの点で成果を出せなかったと言う事は可能かもしれない。しかし歴史の文脈で意味はあったのだと思う。21世紀のブレア氏も任期の最後にこの問題に注力したことを想起せずにはいられない。きっと過去の英国宰相にも思いを馳せていただろう。
 
 こういう政治家は気質として革命家的な部分を持っていたのだろうと思う。しかし、いずれの人物も議会政治というものを重視し、その支持を広げることにほとんどの労力を費やした。自制心と人権に対する良心が彼らのキーワードかもしれない。そして多少なりとも人間の政治意識を変化させた。民主政治が他の政治体制より多少はマシであるという理由は、歴史の経過と共に少しづつ進歩が期待できるという事が大きな割合を占めている。彼らはそれに最も貢献した人たちではないだろうか。出来れば現代の政治家にそういう人が現れ、棺が覆われる前に世の評価があれば、と思う。それが困難な事は、構造上の宿命かもしれないが。
posted by カワセミ at 01:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記・コラム・つぶやき
この記事へのコメント
初めまして。
仰ることに共感しましたので、コメントさせて貰います。
これは日本に限らないのでしょうが、政治に対して何を求めるかという点について、ことこの国では大きな目標を設定しすぎている、と感じることが多々あります。我々は政治家に対して高潔であることを求めすぎている、また政治というものを極端に高尚なものか、或いは何よりも汚いものとしか捉えられないでいるのが民主主義という制度の最大の問題で、だからこそ尊敬する政治家なり何なりと言われて、幻想を被せやすく、汚い部分を覆い隠しやすい、遠い過去の人物を挙げることが多いのだとも思います。
ちなみに私にとって(政治家ではなく)政治的な意味で尊敬する人物というのはジョージ・オーウェルであって、彼の政治に対する態度こそ近代市民社会の一市民にとって模範になり得ると信じています。70年前に書かれた文章が現代でも変わらぬ意味を持つという点に、どうにかならんのかいな、とも思う訳ですが。
Posted by lasmall at 2011年06月12日 14:49
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