Hache氏のブログでかんべえさんに御不幸があった事を知った。私は御二方いずれにも直接の面識があるわけではないのですが、オンラインでは随分お世話になっているという感覚があります。タイミングも遅くなり、私がここでというのもいささか的外れかもしれませんが、心から弔意を示させていただきます。
いずれ誰にも回ってくる事ではあるが、やはり肉親は健在であるに越したことはない。私も随分前に亡くなった父親の事を思い出した。ブログなのでたまには個人的な日記もよいであろう。
父が亡くなったのは1985年だった。私も成人前であるし、若い頃にありがちな事として自分の志がうまく現実に反映されるわけでもなく、どうにもままならない日々であった。家庭の状況も病弱な父親を抱えて大変な日々だった。たまたまというか、かんべえ氏の著作にそのものずばり「1985年」がある。良書であるが、私はそのような個人的な事情から複雑な思いで読むことになった。当時の世間は随分繁栄していたようにみえる。その中で、なぜ私だけがと思っていたような日々だった。むしろその後の「失われた10年」に私の身辺はむしろ落ち着いた。まぁ、単に年をとったというだけの話でどうという事もない。しかしこの時期は、世間的にも停滞という形での奇妙な社会の相対的安定があったとは言えまいか。むしろ景気が回復してきている今のような時期に人の心にさざ波は起きていないだろうか。必ずしも自分がそうだったからというわけではないのだが。
私の父親は、今となってはあまりいないかもしれない、怒ると怖い雷親父の典型だった。子供の頃は大層怖かったが、しかし今にして思えば、そうするべきだという教育方針の信念か何かの反映だったのだろう。事実私が年を取るに従って少しずつ手綱を緩めているフシもあった。
父も若いころには志はあったようだ。歴史学者とか、そのような方面に進みたかったらしい。しかし体を壊して思うようにならぬ人生だったようだ。私が覚えている範囲でも寝込んでいる事が多かった。洋楽や小説、ニュースなどを見て過ごしていた。クラシックはあまり聞かなかったが、しかし私が最初に聞いたクラシック音楽は、この父が気まぐれで息子に与えたベートーヴェンの交響曲全集だった。人間こういうものを一度は聞いておかねばならないというような事を言っていた覚えがある。
見ていたニュースの中でも政治や海外の話題などに興味を示す事が多かった。といっても、今と違ってインターネットも普及しておらず、特別な組織に所属していたわけでもないから情報の入手経路は限られていたはずだ。病床に伏していることが多く、せいぜい雑誌とテレビくらいしか目にしていなかったはずだ。英語も苦手だったので海外の論壇に詳しかったとも思えない。しかし不思議と判断は良かった気がする。
似たような世代の人にはいささか実感があるかもしれないが、米ソ冷戦は極めて状況が固定的な印象があった。両国が核ミサイルを向け合っている事実は子供でも知っていた。究極の破壊力を前に、未来永劫この状況が続くような感覚を少なからぬ人が持っていたのではないだろうか。だが父はあっさりと「ソ連なんて、そもそも大した国ではないからそうそうやっていけるものではない。100年も保てば充分長いほうだろう」というだけであった。そんな簡単なものかなと当時は思っただけだったが。
同じような時期、記憶もいささか怪しいが、恐らく第二次石油危機の頃であろうか。このままだとあと数十年で石油がなくなると世間で騒いでいたころだ。私はまだ小学生だったはずだが、知的に背伸びしたい時期ということで、色々な雑誌とか本の受け売りみたいな事を家族にやっていた。その時父はひらひらと手を振って、「そういう言は頭からそのまま受け取っても仕方が無い。もし本当に石油が数十年で地球から無くなるという事であるのなら、この程度の騒ぎ方であるはずがない。世界のあちこちで派手に戦争になっているに違いない。だから、油田など問題なく後から次々見つかるはずだ」と。当時は何となくむきになって反論したものだが、そのうち分かるとという感じに笑っているだけで相手にされなかった。奇妙に悔しかったが、その一方で大人の余裕を見せられたようで、それが本当なのかなと内心思っていた。
もう少し長じてからは、いささか政治的傾向も分かるようになった。当時の社会党や共産党のような左派勢力を決して信用していなかった。大事なことは任せられないというのである。ただ国政はともかく、地方自治だと時にはいいかと言う事もあった。継続的に自民党支持だったので保守的に過ぎると当時は思ったものだ。しかし今にして思えば、河野洋平に肩入れしていたりとか、むしろ中道左派的な判断をしていたように思う。もっともこの件は後から失望する事になったのだろうが。同様に米カーター大統領も好んでいた。レーガン大統領誕生の際はいささか意外そうにしていた。ただ数年後に自分の判断は誤っていたというような事を言っていた。レーガンは優れた大統領であると一期目に判断していたようだ。
病弱な割には妙に外出したがるので家族は困っていた。つくば博も無理に家族を連れて行ったが、自分は車椅子だった。ああいう科学イベントの雰囲気は好きだったようだ。夏の暑い時期に人でいっぱいでろくに入れなかったのもいい思い出だ。
具合の悪い日々が続いていたが、それが何年もとなると人間はそれに慣れてしまう。癌などであればともかく、何と無くそのまま保つような印象を家族は感じるものだ。だから亡くなるのも唐突だった印象がある。50歳を超えて間もない年齢というのは、今の基準だといかにも早い。命日が文化の日というのも親父らしいと思った。
同じ年、ゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長に就任する。その後の歴史は誰もが知っている通りである。親父は一番面白い所を見損ねた形になった、最後まで運に恵まれなかったな、数年後にそう思う事になった。
上に書いたような会話は指で数えるほどしかなかったが、年齢を重ねるにつれ、それを残念に思うようになる。もっと話をしておけば良かったと。そして今も、エントリを書くたびに父ならどう考えるかとふと思うことがある。あっさりと、しかし物事の本質を的確に指摘してくれるような、そんな気がするのだ。
2007年06月07日
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息子の期待とは遠く…家は実質、歴代「嫡子たち」の断念された愛の清算を計画する、いわば「天国の住人」を志向する合理性の鼎(予定説)ですから、「今の私」には残酷です。
一様の父像は、明らかに「負債」として機能している。
…私も随分恨んだものでした。
しかし、数十年を経て、それでも本当に憎悪はさせない「彼」の言葉も、同じくらい覚えている。これまた残酷なことに。
かつて、『父の肖像』という映画を見た時に感じたことでした(メルヴィン・ダグラスとジーン・ハックマンの演じる和解なき断絶、ラストの遺された息子の、切ない、淡々とした独白等…実に見事な映画でしたよ)。
まったく…愛さないわけにはいかないから、難しい。
私事で恐縮ですが、高校時代までの父の記憶といえば、深夜、私が寝ているときに帰ってきて、朝、7時過ぎには家をでているという生活の繰り返しでした。たまにする会話も仕事のことばかりで、いささか自慢めいていたので割り引いて聞いておりましたが、大学へ進学してから、でんわでしたが、社内で干されて、「俺の人生はなんだったんだろう」と嘆いていて、初めて父の苦労を理解した覚えがあります。休日は単なるぐうたら親父でしたが、自分の好きなことを仕事にしたいという考えをもつきっかけとなったという意味では、最大の影響を受けたのかもしれません。
とりとめがなくなりましたが、今後も抑制された情熱に裏付けられた「作品」を公開されることを願っております。
話題の成立する家庭であれば、ニュースを見て感想を語るとか、そんな事をやっておくのも貴重なのかなと思います。昨今のややこしい国際情勢を見ると感慨があります。
体が弱くて外出できなかったので、インターネットを使わせてあげたかったです。