昨今、従軍慰安婦問題が米国下院で取り上げられ、再度注目を浴びる形になっている。歴史認識の問題はいつも難しいが、自分が良く見る数少ないブログで取り上げられていたこともあり、このエントリでコメントの代わりとしておくつもりである。
forrestal殿のエントリで歴史認識のレベルを分かりやすく例示しており、この種の問題を取り上げるときに整理された思考の手助けとなろう。ただ、リンクしておいてこういうのも何だが、筆者の見解は少し異なる。ここで言うファースト・レベルの検証段階とセカンドレベルの認識・解釈レベルはこの問題の出発点と終着点であると思うのだ。中心に検証の結果得られる客観的事実があり、アカデミズムの原則で事実が追及されるのを基本とする。しかし認識・解釈レベルは、各国・地域・文化集団・個人によって実に様々である。同じ国の中でも異論があり、少なくとも民主主義国では、多数派はこうであるという言い方しか出来ないことが常である。中心となる客観的事実の中で何を重視するかが異なるため、核から放射状に異なるベクトルに向かっているとイメージするべきかもしれない。そして比較的近い方向に向かっている国が、サードレベルの運用段階で協力しやすいのではないだろうか。
以前にもどこかのエントリで示した、日米間を例にとる。広島・長崎への原爆投下は、客観事実としては特に問題なく一致しており、悲劇であるという認識も双方にある。しかし日米の解釈としては、米国は終戦を早めるのに役立ったとし、残虐な結果はしばしば戦争の中で見られる悲惨なものの一つだとすることが多く、日本は特別な意味合いを持つ民間人の大量虐殺だと認識している。また口にはあまり出さないが、米国にしてみれば少しでも自国の死傷者を減らす役に立ったのだからそれだけでも意味があったと思っているだろう。当時の日米はいずれも純然たる敵国であったという当たり前の事実がそこにある。このように解釈面では大いに違うが、このような悲惨な兵器が使用されてはならないという意見は大筋で一致する。使用をタブー視する度合いは今でも違うが、政治的道具である以上日本も核の傘が無ければ論理は米国と大差なくなる。極力使わず、どうしてもそれ以外に選択肢がないという切迫した究極の段階で検討するということであろう。
そして古今東西、歴史の解釈はこのように部分的にしか一致せず、その部分的な一致の範囲で運用されていくことが大半であろう。もちろん直接対立関係になかった第三国に対する解釈はある二ヶ国で一致することもあろう。しかし対立した当事国の双方で、完全に見解が一致したという例はあるのだろうか。なかなか思いつかないのだが。結局解釈の一致は究極のゴールとみなすべきなのだろう。
また注意しなければならないのは、この核となる客観的事実の追求が当然視される国は、案外限られているということだ。社会の秩序を構築する上で発生するタブーは数多い。例えばイスラム地域の言論は、コーランは絶対であるという所から出発し、すべてをその原則で解釈する。それよりははるかに柔軟だが、韓国の朱子学的な思想もやや似た風景を示す。事実の中で何を重視するかを議論する前に、事実の項目の取捨選択が発生するのだ。日本人は驚くほどこれに慣れていない。時に欧米諸国より西欧のアカデミズムの原則に則って議論をするのだ。歴史認識の問題で摩擦が発生するのは、解釈レベルよりこの取捨選択の部分に内包されていることが大方であろう。
さて従軍慰安婦問題の件だが、雪斎殿がエントリしており、大筋で異論はない。またこの問題の個別的事実を議論するのもここではしない。アカデミズムの原則で対応することで問題ないと思うからだ。しかし日本側の対応で気になる点はある。
それは、日本の国家犯罪として為されたものではないということを証明することに気を取られていることだ。安倍首相の強制性に関する発言もそれを裏付けている。ただ少なくとも米国の論理としてはそうはならない。これはsex slave問題として取り扱われており、slaveであったか−即ち選択の自由が当事者にあったかという事が核心なのである。これは拉致問題の核心が、拉致されたことそのものもさりながら、出国の自由が無かったことが最も重要であるのと同様である。つまり首相の立場で一言コメントするのであれば、slaveではなく選択の自由が彼女たちにはあったという事をシンプルに示せばそれで良いのである。
ただ、ここから先が恐らく日本人の感覚では慣れていないところだが、強者の責務に関してはより注意深く触れなければならない。現地での離脱はしばしば実質的に困難であったろう。そういう場合でも(その個人がどのような人物でも)民間人である以上、保護して然るべき安全な場所まで送り届ける義務がある。それは軍人である以上、時に危険を冒しても果たすべき責務であるという事である。むしろ与える報酬などは安くてもよかったのである。悪くすると「今の日本人も強者の責務を果たしていない。昔から全然変わっていない」という論調が広がるであろう。限られた条件で極力責務は果たそうとしたのだと訴えていかなければならないのだ。案の定、マイケル・グリーン氏から「強制性の有無に関係なく、被害者の経験は悲劇的で、日本の国際的な評価はよくならない」とコメントされている。実際悲劇的な結果に終わった人がいないとは言えない以上、今回の当事者の証言の真偽に関わらず問題とされる。少なくとも原則としてslaveではないと言い、責務は極力果たしたと語り、人道を語るだけで事足りた。今回の日本側の対応は、少なくとも対米という意味では明らかにうまくない。過去の実質はともかく、説明が下手すぎるのだ。もっとも韓国はというと、これはまた全然別の次元で駄目なのだが。
2007年03月07日
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Excerpt: ナショナリズム関連で複数の物件が重なったのでエントリしてみる(政治系は未だちょっと苦手なのだが、とりあえず伝聞ってことで)。 まず最初にここから 想像力はベッドルームと路上から - 左翼問題..
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歴史認識問題(2)日米
Excerpt: ■本来ならば、(2)は、日中にする予定であったが、またも、この大臣の不適切な発言
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Excerpt: 某国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に
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エントリーの論調には同意するところ多々ありますが、この種のいわゆる歴史認識に関する問題を考えると、日、米、中韓の、歴史に対する基本的は考えの違いを感じます。中国とその文化的影響の強かった朝鮮半島では、歴史は自らの正当性を示すもので、ある意味では客観性はそれに従属する。これに対し、日本、特に近代ヨーロッパの学問体系を輸入した明治以降の日本は、過度といってもいいくらい客観性にこだわります。
一方アメリカは、基本的に歴史性否定で、歴史的経緯や伝統の重みを、法や道徳に還元して議論する傾向がありますね。ケナンが喝破した「道徳的法律家的態度」です。
つまり、この種の問題に対する日本の対応は、中韓と米国で、異なったアプローチが必要(勿論、日本としては客観的事実を曲げる必要は、まったくありませんが)と思います。
その意味で、カワセミさんが言われる対米対応がまずかったというのはそのとおりです。アメリカに対しては、従軍慰安婦への政府関与が客観的な事実でないというだけの反論では、弱い。
法的道徳的にアッピールできる事実があればどんどん言えばいいと思いますが、そうでなければ、唯我独尊の米国議会のこの種の決議には、打つ手は少ないでしょう。理不尽だと感じても。
カワセミ先生のご苦労を思えば、躾のできないこの身の不明に恥じを感じずにはいられませんが、
厄介者はまた来てしまいました。お許しを。
心証は未だカルヴィニストの国であるアメリカの、久々「らしい」答弁でありました。
調停の徳目を原理として通低させている点、途上国ベースで考えれば流石の物言い。国家としての幻像はいささか予定説的な相貌を(実測の善悪とはなしに)とりますから、総体的には賛意を受ける行動なのでしょうが、
悲劇をあくまで回避可能と(達成意欲に過ぎないとしても)大っぴらに謳う決議は、およそイギリス人との(人生観の)センスの距離を感じました。
相応の批判は受けてきて尚、ピルグリムファザーズの企図は死んでいないのか。
>少なくとも原則としてslaveではないと言い、責務は極力果たしたと語り、人道を語るだけで事足りた。今回の日本側の対応は、少なくとも対米という意味では明らかにうまくない。
以上は悲劇を説明する難しさとして、普遍の未解決事項として、延々と、原理に一抹の諦観が訪れる(染み付く)まで繰り広げられる事態なのでしょうか。
いずれにせよ、過去に道理の正当を衒うことは(それが切実を冠した願望ゆえ、たとえ不可能であっても)容易く、
その反論は、当時の(範囲の)再現が極力なされないようにされている現在からすれば、絶望的に難しいことだけは確かなようです。
長文失礼いたしました。
TBありがとうございます。リンクまで、貼って頂いて、恐縮です。もう少し精緻なエントリにしておけば、批判・反論のしがいがあったかと思われますが。(笑)
お分かりの通り、あのレベルは、かなり単純化してあります。まあ、歴史認識問題を考える上で、各々が参考にしていただければということですね。
やはり気になるのは、対米関係ですね。
この「従軍慰安婦」の問題は、もうすでに政治化されていますし、ある程度の国際的認知があるわけです。
事実、これがどのようなものであったのかという以前に、この度の総理に発言は、まさに、マイケル・グリーン氏が述べる通り、国際的な評価を落とす可能性が高いでしょう。
私のレベルでもあるとおり、御説にもある通り、事実検証にしても、認識・解釈にしても、主観的な部分は、完全に拭い去ることはできないでしょう。それが、多様な取捨選択を生む要因でもあるでしょう。また、国益という要素も絡んできます。(もちろん、この主観には、文化的な個々人を取り巻く環境が大きいことは言うまでもない)
ですので、本来、密接不可分なことを、分析レベルを提示したのですね。
そうすれば、どのレベルで、どのような原因で、どのような摩擦が、起こっているかがわかりやすい。私も、悲観的なのですが、まず、その差異を互いに理解するところからではと思っています。
ただ、もう多分にパワーゲームに反映されてしまっているのですが。。。
今回も良い補足をいただきました。いつも楽しみにしております。
>M.N.生様
>一方アメリカは、基本的に歴史性否定で、歴史的経緯や伝統の重みを、法や道徳に還元して議論する傾向がありますね。
おっしゃる通りですね。米国の場合、その国内ですら異なる歴史的経緯を広く包含するものとして共通の理念や道徳が前に出てくるのでしょう。その付近をもう少し補足したエントリにするべきかもしれませんでした。
それでも、これは米国の長所と表裏一体です。時と場合によっては日本の拉致問題への協力や他国の深刻な人権侵害の状況緩和に繋がります。欧州の一国や日本のように他国の事を相対主義的に考える文化がもう少し強ければ、むしろ良い仕事は出来なくなるでしょう。日本はそのような事を面倒がる傾向が強いかもしれません。ただ中長期的にはイギリスのそれと多少近くはなるかもしれません。
>魚服記様
>悲劇をあくまで回避可能と(達成意欲に過ぎないとしても)大っぴらに謳う決議は、およそイギリス人との(人生観の)センスの距離を感じました。
その実質的な困難さに無頓着過ぎるという批判はありでしょう。しかし総合的に見て、なおその主張はそれなりに理があるでしょう。ですから、「当時の日本としては精一杯やった。しかし今の日本はもっと人道的な世界を望んでおり、それは今なら達成できるし、我々はそうする」というような未来志向系のメッセージを混ぜておかなかったのは失敗かなと思いました。そうした事は日本人として当然の前提になっていますが、他者に伝わっているかどうかとなればまた別ですね。
エントリで書き忘れたのですが、例えば拉致問題などに関わるのであれば、現代の奴隷貿易のような類似の人権侵害にもっと取り組むべきであるかと思いました。今回の問題でも、驚くほど日本人の論理は内向きです。国際的には全く異なる文脈で話されて足下を掬われるかもしれません。
>forrestal様
>この「従軍慰安婦」の問題は、もうすでに政治化されていますし、ある程度の国際的認知があるわけです。
基本的には国内問題の延長で、河野談話にしてもどこの外国人が出したわけでもないのです。ですが、問題の核心を明確に提示するのを怠り、小手先で解決しようとし過ぎました。結果このようにツケが回ってきているわけです。
今は様々な政治的負債を返す時期ですし仕方がないでしょう。ただ日本は国会議員のレベルですら政治的ストレスに弱過ぎますね。反米や反英、反仏や反露に比べれば反日など取るに足らぬものでしょう。もう少し平然としている事は出来ないものでしょうかね。淡々とポイントを突いた説明責任を果たせば良いかと思います。
>事実、これがどのようなものであったのかという以前に、この度の総理に発言は、まさに、マイケル・グリーン氏が述べる通り、国際的な評価を落とす可能性が高いでしょう。
そう思います。核心部分がそこではないですから。まさにコメントした部分に第一の関心を示しているというメッセージとなってしまいました。
>名無し?様
上記までのコメントでお分かりかと思いますが、米国はもちろん、多くの民主主義国ではそれほど法律を絶対視しません。特定の文化集団のコンセンサスの明文化であるということがもっと意識されているからです。むしろそのような発言は、法を人道に無関心であるための言い訳にしていると誤解される可能性が高いです。
いずれにせよ、日本が過去の真実の隠蔽を図っているのではないという事を伝えねばならないのですが、それは案外に難しい作業だと思わねばならないでしょう。
ついでに、当時の慰安婦達に職業選択の自由があったとは思えませんね。
当時の日本の売春婦達のほとんどがそうであったように。
慰安婦ですが、貧しさというものをどう考えるかですね。結局、個別の悲惨さがあり、それをまとめて扱う議論をするのが間違いなわけで。だからこそ当時の原則、今の原則を示すことが重要なのですが。
大変興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。
以下、酔った頭での妄想です。
「週刊新潮3月15日号」、
p.88にあります「週刊新潮 掲示版」をたまたま読んだ所です。
そこで女優・歌手の島田歌穂が、
今度ミュージカル「蝶々さん」でお蝶さんを演じること、
そして、
「主人公は創造上の人物だと思われてきました。」が、
「実は、実在した女性がモデルになっている」と述べ、
「ミュージカル『蝶々さん』は、史実に沿った構成で真実の物語を繙いていきます。」
と新作の紹介をし、
武家の人が吹く笛についての情報を求める文を載せていました。
そこでふと思ったのですが、
「マダム・バタフライ」と、
占領期米軍を絡めたエンターテインメントをうまく作れば、
カウンタープロパガンダとして効果あるかもしれません。
まあ、そういった方面での日本の能力に大いなる疑問がある以上、
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20070313
で述べられている、
>日本と米国、それに望むなら韓国も交えて、歴史学者による事実調査を行い、
>少なくとも事実認識だけは一致させた方が良いのではないかと思うのですが。
>これを日本が提唱すれば、日本が真実を隠蔽する意図がないことを示すことにもなるでしょう。
あたりが、現実的な対策案かもしれませんね。
>まあ、そういった方面での日本の能力に大いなる疑問がある以上、
いかにも止めたほうが良さそうですね。大幅に外しそうです。
>日本と米国、それに望むなら韓国も交えて、歴史学者による事実調査を行い、
>少なくとも事実認識だけは一致させた方が良いのではないかと思うのですが。
>これを日本が提唱すれば、日本が真実を隠蔽する意図がないことを示すことにもなるでしょう。
あたりが、現実的な対策案かもしれませんね。
私も氏のブログは読みました。付け加えるなら、数字を示すのに極力注力すべきですね。偽証の発生率とか。欧米、特に米国人は数字で物を考える傾向がありますので。やはり英語での発信能力が少ないのが致命的でしょうか。
とはいうものの、自国ですら少し以前はどうだったと考えると、今現在外国がどうこういうのに文句は言えないでしょう。多少面倒でも地道にやるしかないですね。だからこそポイントを外した政治家の発言は勘弁して欲しいのですが。
奴隷貿易が終わると、今度は植民地支配というさらに苦難の時代に入る。当時ヨーロッパ人から「アフリカは歴史のない大陸」という偏見も相まって、ヨーロッパの好き勝手でアフリカは蹂躙された。入植した白人を優遇し、現地人は安い労働力としか見なされず、伝統社会は破壊された。
独立してからもアフリカは苦難が続く、貧困、飢餓、紛争、とりわけ植民地支配によって造られた国境を引き継いだ結果、部族対立などで経済が停滞。21世紀に入っても未だアフリカは最貧国のレッテルを貼られている。
歴史認識では中国や韓国は怒れるのに対し、アフリカ諸国は怒ることが出来ない。それは中韓とアフリカでは違うからだろうか。
日本は中国や韓国に何度も謝罪した。しかしヨーロッパは一度も植民地支配を謝罪していない。歴史認識の溝は日本と中国、韓国しかないというのは大間違い。それ以上にヨーロッパとアフリカの方が溝があるのでは。
>奴隷制は古代からあったが、奴隷貿易は七世紀にはじまった。大西洋間の奴隷貿易がはじまる前からアラブ商人による奴隷貿易があったし、ブラックアフリカ内部での奴隷貿易もあった。トビラ法が問題にした一六世紀以後のヨーロッパ人による大西洋間奴隷貿易は、したがって奴隷貿易のグローバルな歴史の一部にすぎない。アフリカ人には奴隷貿易の犠牲者と奴隷商人の両方がいた>
バンドン会議時代の時の白人の原罪的理論は、日本においてと同様、ヨーロッパでも既に受け入れられていないと思うのですが。そういった見解に同調するのは、ヨーロッパの左派リベラル派ではないでしょうか。日本の克ナショナリズム・リベラル派が中韓のハードライナーナショナリストと同調してしまうのと同様なねじれを感じますが、ハイタカさんはどうお考えでしょうか。
>arkanal様
コメント有難うございます。
アフリカですが、やはりアイデンティティの対象となる集団が小さい事がポイントなのかなと思います。我々は国民国家の枠組みに慣れてしまっていますが現地ではもちろんそうではない。いわゆる植民地支配に関するネガティブな解釈は基本的に西欧起源のもので、土着の文化を無視したという表現自体が西洋的なプロトコルを示しているでしょう。もちろん今日の基準ではなく、当時の基準からしても非人道的な事は様々にありました。ですが、あまりにもアフリカ各地で事情が違い過ぎ、簡単に議論出来ないところです。いわゆる北アフリカなどのイスラム地域と南部アフリカについては、ある程度広い範囲を取って議論することも可能かと思いますが。
奴隷貿易は確かに昔からありました。しかし量は質を規定するという側面もあるので、近代的な手法で実施されるという部分に一線を引いてそれは駄目という解釈自体は(もちろん基準に多々議論はあれど)あり得るかと思います。実際、より現代に近い時期で規模の大きいものが強く非難されるのが世界の現状で、それ自体はそれほど悪くもないと思います。百年以上とか時間が経過すれば、正の部分もやや大きく評価されるかもしれませんが。
この問題に関してはあまり話題にもしたくなくて、いつも以上に放置していました。ただもやもやしたものが私自身にも残るので、エントリ更新の機会にやっぱりコメントします。この件、伝統的に日本の政治家が苦手な分野に見事にかぶっている事は意識していいかもしれません。
今回、事実関係に関してはアカデミズムの手法でと言及してありますが、その一方で内閣や議会を構成する政治家の意図に関しては分析することを一切しませんでした。なぜかというと、それがどのようなものであるに関わらず、結果としてアウトプットされる政治の現実の良し悪しにブレは発生しないと考えたからです。これが長期的なことを考えた牽制球とかいうのであればまた別ですが。
このような性質を持つ、政治的な管理を要求する案件の対応に関して、今少しの成熟を期待してもいいかもしれません。なお、日本の歴代の首相で高く評価される人物は、この側面が日本人のみならず対外的にも得意であった人物が多いと思われますが、これは偶然ではないと思います。
ことは重大なことだと思います。歴史にはさまざまな
立場と意見がありえるわけで、いくら学問的な歴史学
と言っても、誰も文句のない事実があってそれを明らかにするというような簡単なことではないでしょう。
だからいろんな立場からのさまざまな歴史観というのはあってよいのですが、外交上の処理を考えるとどれかの歴史観が基準あるいは公式見解になる必要があると思います。そこに政治的な要素が入ってくるわけです。その政治的要素を考える上で日本が戦争に負けたことが重要な意味を持ってくるわけです。そのようなことも考えた上で日本がどのように歴史について発言していけばよいのかを私も考えて論文を書きました。ご参考にしてください。
http://www.kjps.net/user/khiroshi/baka/baka-index.html