JR西日本の脱線事故は世間で散々話題になっているし、今更という気もするが、ちょっと思ったことを書いておきたい。
この件に関してはR30氏が良いポイントを押さえている。(参照)「現場に二律背反となるルールを課してはいけない」という点だ。確かに優先順位をきっちりつけておく事は重要である。しかし、この事故に少しばかり日本的な風景を見た気もする。
日本の労働者は、欧米のそれと違って各従業員が会社に果たす役割をきっちり決められているわけではない。日本人は全般として教育水準が高いせいという事もあり、会社の従業員の、かなり現場の平に近い部分まで会社のことを考えて行動するという傾向がある。自分の労働力を短期的に切り売りすると割り切っている人は少なく、将来的に会社のトップ近くまで行く「可能性」であればかなり多くの人が感じている。実際建前としてはかなりそうなっている。それゆえホワイトカラーの上層部が考えるような事を現場で必要以上に考えるという傾向がある。
これは運転手の意識を考えると分かりやすいのではないか。私はJR内部の状況を熟知しているわけではないが、若くて列車の運転を任せられるとなると、それはエリートの駆け出し的な意味合いが強くなるのではなかろうかと推察される。会社や部門のマネージメントをする際には、二律背反的な複数のファクターがある中、それをバランス良く調和させて全体としての最適解を出さなくてはいけない。ただそれをブレイクダウンすれば個々人がこなすべき役割は比較的単純にはなる。そこまでの割り切りを各人がやれず、恐らく課長とかグループリーダークラスに過大な負荷がかかり、将来にそれなりの志はある多くの現場担当者もその意識を共有したのではないか。その意味で韓国あたりの新聞が揶揄する「後進国的な事故」というより、先進国の極限、いや、「あまりにも日本的な事故」として現れたのではないか。
この問題、ミクロで見ればJR西日本は責められて然るべきであるし、責任は果たさねばならない。しかしマクロ的には、様々なファクターを高いレベルでバランスを取ったサービスを当然として求めるような市場であるからには、ある低い確率でこの種の大規模な破綻が生じることは、我々日本人は腹の底では覚悟として持って置かねばならないだろう。もちろんそれはJRを免罪することに繋がらないし、再発防止策を怠って良いという話でもない。遺族の悲嘆や怒りを否定するものでもない。ただ事実ベースとしては、イタリアの一部みたいに列車が30分遅れても問題にしないような社会であれば発生しなかった事故ではある。高いレベルのサービスを求めるなら、その負担はどこかが負わねばならぬというだけの話だ。
この種の問題は様々な側面で発生する。食物の偽装問題などもそうだろうか。モラル上誉められたことではないが、極限的に切り詰められた損益分岐点を綱渡りした結果のようでもある。人間社会が聖人君子ばかりでない以上どこかで発生する。だから外部チェックのたぐいが必要なのだろう。それに社会のサービスや技術が高度化するに従って、何か事が起こった場合の被害の規模は拡大している傾向にある。飛行機事故などが典型か。列車も運行速度が速くなれば事故の際の死傷者は増える。事故の確率は低下し、被害の規模は拡大するという事実がますます問題を困難にする。何しろ我々の社会は、一定以下の確率の危険は無視するという暗黙の了解で全て動いている冷厳な事実があるのだ。交通事故しかり、夏に必ず起こる水の事故などもそうだが。そして原子力発電も典型的な問題ではある。
そしてこの種の極限的な課題が安全保障問題だろうか。世界で屈指の高い安全保障のサービスを政府に求めつつ、GNP比としては世界最低水準の負担しか容認しない。国民にその自覚があればまだ良いが、当然視して何か事が起こったら「政府はこうなるまで何をしていた」となりそうな気がする。様々な所で無理が発生しており、その無理は問題の隠蔽や困難な問題のアメリカへのアウトソーシングで片付けている。政府はもっと正直かつ率直に、問題を議論の遡上に載せるべきではないか、と思う。
2005年05月02日
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要はリーダーシップの問題ですが、現場から最上層に至るまで、良質に要点を抽出した情報が上位に上がっていくことが何より肝要と思います。良い組織はこれが出来ており、今回の事件に見られるようにJR西日本にそれが出来ていなかったことにも反論はありません。
ただ、犯罪の少ない社会を目指す事は適切ですが、犯罪の無い社会を目指すことはむしろ総合的に見て有害かも知れない事を頭に置く必要はあるかと思います。今回は会社側の非が大きいのでその種の議論をする必要はあまりありませんが、今問題視されていない様々な社会におけるミッションにおいて、そこの部分の線引きがどこになるかというのは、永遠の課題のようにも思います。
ここ数日に至ってはボーリングに話題が集中しやれやれというところです。人間は放置すると日常を継続するものですし、その性向自体は危機においてはむしろプラスかもしれないのです。これもマネージメントの問題に尽きるのですが。ミクロな視点がさらにミクロに縮小するばかりでは仕方ないですね。
>安全保障問題には、まだアメリカという最後の存在がいても、国内の社会システム改善には我々以外に頼るものは無いのですから.
いや本当にそう思います。日本に存在する組織にはJR西日本より人材の質も士気も低いところがあるでしょう。むしろそちらの方が多いかもしれません。それでも安全でありつづけるためには、どこかで社会の余裕を回しておかねばならないと思うのです。
少し前ですが、フランスの新聞でこういう内容の記事があったそうです。考えさせられました。
「インドネシアで地震により大きな人的被害があったが、日本において同じようなマグニチュードで発生した地震による被害は何桁も被害が違っていた。結局天災というものはないのではないか。全ては人災と表現できるのではないか・・・・・・」