2005年04月05日

名張毒ぶどう酒事件再審に思う

 何分私の生まれる前の事であるから感覚としてもピンと来ないが、かねてより死刑確定囚の中では冤罪の可能性が高いとされてきた同事件で、再審が認められたようである。同事件に詳しいわけでもないし、事件そのものについてはコメントは控えたい。ただ今になって再審請求が認められたという事で、司法の判断としても冤罪である可能性が高いか、少なくとも証拠不充分であるとしたのだろう。
 私自身は明確な死刑存置論者でも廃止論者でもない。ただどのような凶悪な犯罪でも死刑にならないのは理不尽とは思うし、冤罪の可能性がある以上リスクを伴う側面がある事も否定できないと思うだけである。しかし治安が良好に推移し、社会の選択として死刑を廃止するとなればそれはそれで良い社会であろうとの思いはある。途上国では実質難しいが、日本のような先進国では、少なくとも少し前までは可能であったのではないか。ただ昨今の荒れてきた社会では市民感情としても困難かも知れない。欧米での死刑廃止はキリスト教文化云々というが、むしろ米国で死刑の多い南部は敬虔な信者が多くないか。仏教でも殺生は禁じているし、事実平安時代の廃止例はある。結局その時代、その地域なりの犯罪発生率や住民感情を踏まえた社会の選択という気もする。

 今回思ったのは歴代の法務大臣の選択だ。死刑は法務大臣の許可があれば執行するとある。逆に言えば、当然ながら許可がないと執行出来ない。そしてこの事件は歴代の法務大臣が許可しなかった。だから今まで生きてきたと言える。獄死に終わった帝銀事件も同様である。
 就任するとき死刑廃止を挙げて一度も印を押さなかった大臣がいる。職務放棄だと批判された。それなら法務大臣の職に就くべきでないと。確かに批判は理があるように思える。しかしながら、ではなぜこのような規定があるのか。ロボットのように機械的に印を押すだけであればこのような条文は必要ない。もちろん条文を廃止しろとの意見はあるだろう。しかし現実としてあり、これを廃止するような動きは、少なくとも本格的には無かったように思われる。やはり最高刑、しかも回復不能の刑を科すとなれば、司法のみならず民主政治における国民の負託がある行政の責任者が認可するというのは意味があるだろう。そして大臣がどうしても印を押せないような事件であれば、それは執行しないほうが良いという意見に一理は無いか。少なくとも、前記の大臣を批判し、後任として法務大臣の職につき、多くの許可書に印を押した人物もこの事件には押せなかったのだ。もちろん司法のあり方として本筋ではない。しかしそれなりに意味があったとは言えまいか。

 大臣などあっという間にその職を辞すもので、その間だけお客さんとして扱えば良いという意見は官僚にしばしばある。しかし大局的に見れば、やや透明性が欠け、誤りを認めるのにやや硬直性があるかもしれない日本の司法において、「外部の冷静な目」として歴代の法務大臣は機能したようにも思う。少なくとも彼らは選挙民と向かい合って議会にその席を得た人々である。そしてこの構図は法務省に留まらないだろう。本ブログで主に扱っている外交や安全保障問題も、大事な部分は議会政治家が中心になって決めてきたのだ。そして官僚のそれより判断は正しかったように思う。
 もちろん司法制度を整備することが疑いも無く本筋である。整備すれば真面目な日本人は丁寧に仕事をやり、良質な結果が得られるだろう。それもまた政治家の仕事である。
posted by カワセミ at 22:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 国内 時事一般
この記事へのコメント
私は死刑存続派です。私の意見を書かせてください。前期の大臣は失格です。自分の主義で法の執行をしないのは論外です。あなたの言うこの制度の利点から判決等に疑問があるなどの理由で判を押さないならばその制度は生きてくると思います。死刑反対論者は冤罪の場合取り返しがつかないと言いますが、それでは30年以上も刑務所に入れるのは良いのでしょうか、冤罪を防ぐことと死刑制度の議論は別に考えたほうが良いのではないでしょうか。私の意見に批判するのは自由ですが、私は意見を押し付けるつもりはありません。
Posted by 並木 at 2005年04月06日 13:06
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