さして多くのブログを閲覧しているわけではないので、少し前、同じくらいの時期に雪斎さんとforrestalさんのブログが閉鎖と聞いた時には寂寥の念を禁じ得なかった。こちらも実質は似たようなものであり、どうしようか考えた。しかし細々とではあるが、残しておこうかなと思っている。ここしばらくは身辺が落ち着かなかったという事情もあるし、ニュースを見るのもうんざりという国内外の状況もそれに拍車をかけた。とはいうものの、そういう時期にこそ活動せねばならないのかもしれないが。とりあえず、リハビリというわけではないがまずは国内問題で少し雑記を。
福田政権:
正直、とにかく腹が立つ。あまりこのブログでは感情を前面に出したくないのだが我慢がならない。
全くもってこの政権は評判が悪いが、これは自民党に深刻なダメージを与えている。駄目だとは思っていたがここまで駄目だとは思わなかったあたり、安倍政権と似ている。ただ安倍政権の場合は元々一応の国民の人気を受けて発足したものであり、選挙の大敗を受けて終了するという、民主国家としてはごく普通の過程を経ている。これに対して福田政権は党内事情が先行した。そして共通したのは、内閣総理大臣を任せるだけの力量を持っていない人物を総裁に選出したことである。これは前途有為な人材を育成し、一定の資質を備えさせた後に重要なポストを担わせるという、政党の基本的な責務を果たしていないという現状を多くの人に認識させることになった。この種の危機は大臣の選定というレベルでも国家としては致命的である。最近であれば石波防衛相などが分かりやすい。防衛は本質的に不信に対する備えであり、時に業務は冷酷に進めなければならない。世論が追認するような仕事振りが必要なのだが、それが出来ているとは思えない。「責任」ということに関して全く及第点に達していない。そして今は内閣総理大臣そのものが問題になっている。世論との乖離が大きい場合には、せめて政策に一貫した合理性がなければならないのだがそうでもない。負の遺産を任されたと思っているような態度も心証を悪くする。確かに今の日本は多くの問題を抱えているが、それでもまだ世界屈指の経済大国で、治安はまだ良い。教育水準も高いし世に人材は多い。正の遺産ははるかに多いのである。おまけに衆議院では、自力では絶対獲得することの出来ない議席数を引き継いでいるのである。この立場に立ちたいと思っている人は世に限りなくいるだろう。
衆参ねじれ現象:
ねじれというのも変な表現で、院によって獲得議席数が違うだけの話である。だからこうした言葉はあまり使いたくはないが、一応世に倣ってそのようにしてみる。
参院で多数を占めた民主党の行動は、正直立派とは言い難い。個別の政策に関しては批判されるべき多くの欠点がある。次の選挙でどの政党に投票すればよいかの判断は難しいが、それはそれとして大局的に見てこの状況は日本の政治にとって悪いものだろうか?
すべてではないがいくつかの法案に関しては与野党で有意義な調整の結果中道的な法案が作成されている。ガソリンや日銀問題は醜態だが、まだ次の改善に繋げるためのステップと位置付けることが可能で、国家としては長期的にみると容認可能なリスクである。もちろん進歩しなければただの愚挙であるが、一度は止むを得ないかもしれない。
一番危険なのはやはり外交・安全保障分野だが、これも大局的に見ると興味深い状況である。海外では、日本は最小の負担で最大の利益を追求する功利的な外交を継続的に推進していると見られている。またこれに関しては政界で広範囲な合意があるともされている。サマワやインド洋への派遣を欧州の負担と比較するだけでこれは事実と理解できよう。民主党は経験の無さからまだそのギリギリの線の見極めが未熟なだけではないかと考えられないだろうか。それでもインド洋への派遣問題では、衆院2/3での再可決を前提とした行動のようにも見えたし、思いやり予算に関する行動では最初に予想されたよりは早い段階で妥協した。口先はともかく案外自民党と大差ない気がする。今後の予想として、ギリギリセーフと思って高め玉を投げたらギリギリアウトになって、米国と大揉めに揉めるが何らの代替案もなくそれ以前に覚悟もないのであっさり凹んで終わり、という局面が一度くらいあるように思っている。つまりは湾岸戦争のときの自民党の繰り返しという事である。
前途多難ではあるが、近年の日本では、政治に対して有権者はやっと他の民主国家のように鋭く反応するようになってきた。そうなってからまだ数年と思えば、政治が成熟するのはまだまだこれからである。有権者は腹をくくるしかないようだ。
秋葉原事件:
通り魔事件としては異例なほどの衝撃を日本人に与えた事件となった。私もたまに足を運ぶことがある、見慣れた場所である。この事件に対する世論の反応には様々に屈折があるようだ。いわゆる就職氷河期世代にとっては、報道された範囲での犯人像を他人事と思えないと感じた人が少なくなかったのではないだろうか。7年前の事件の宅間元死刑囚とは違い、比較的普通の人間である。そして被害者は単にそこを歩いていただけの人間である。ほんの少しの運命の違いで、加害者にも被害者にもなっていたかもしれない事件として、複雑な感情を持って受け止めている人が多いのではないだろうか。
そしてこの事件の背景である。当然犯人は厳罰に処されることになるであろうが、これは他人を巻き込む形での広義の自殺とも言える。犯人は少数の異常者であると考えることは適切かもしれない。しかし事前にこの犯罪を発生させないためには何が必要だったかと考えるとまた別である。宅間元死刑囚の場合は困難であったかもしれない。が、今回は、少しばかりましな雇用がそこに存在すれば起きなかったかもしれないと人々に思わせるような報道がなされている。つまりこれはレアケースであると同時に確率の増大という側面もあり、明らかに今後悪化方向に振れることも確実ではないだろうか。つまり、自分が加害者にも被害者にもなるかもしれない凶悪事件が今後増大傾向にあると少なからぬ人々が考えたということであり、それこそがこの事件のやりきれなさではないだろうか。
言うまでもなく、より多くの人が自分は加害者側に立つことはないと考えている。そして何が原因かと考えたがるが、それ自体はあまり意味がないかもしれない。むしろ大多数のそれを起こさない人はなぜ起こさないかを考え、それをある種の立場の人には人為的に構築するといった方向に思索を向かわせるべきではないだろうか。明日も安心して街角を歩きたいと願うのであれば、それが必要であるように思うのである。